本日のブログは「丸亀城」(香川県丸亀市)の「お城紀行」です。

 

「丸亀城」の歴史と城主についてまず触れておきます。

本格的なお城は、讃岐に入った「生駒親正」「一正」親子が1597年に「高松城」の支城として築城したのが始まりです。

 

関ヶ原の戦いでは、親子東西に分かれましたが、息子の「一正」は東軍参加したので加増されて家督を継ぎお城も1602年に完成させます。その後、「高松城」を本城として「丸亀城」は城代を置きます。

 

しかし1621年にお家騒動「生駒騒動」を起こし「生駒家」は領地没収、「讃岐国」は二分され「高松城」には水戸徳川系の「松平家」が入り、「丸亀城」には「山崎家」が入り城の改修を30年間もかけて行いますが、そのうち嗣子なく断絶します。

 

そして1658年に「京極高和」が6万石で入城し、大改修を行って現在の「天守」もその時(1660年)に完成させ、「京極家」が幕末・維新まで続きます

 

 

さて「お城紀行」の続きでは、「栗林公園」を後にしてJR「予讃線」で「丸亀駅」17時40分に到着、駅構内にあるスーパーで夕食となる弁当を購入してホテルへ入りました。地方へ行くと、駅前には居酒屋は多いですが、下戸である私が一人で夕食をとれるような飲食店は少ないので、お弁当を購入してホテルでテレビを見ながらゆっくりと過ごす場合が多いです。

 

ホテルは最上階でしたが、カーテンを閉めようと窓に近づくと、何と「丸亀城」(香川県丸亀市)の天守がライトアップされていて美しく浮かび上がっているではないですか。

 

ライトアップされた丸亀城

 

ライトアップされた天守の撮影は勿論のことでしたが、確認したかったこともあって、夕食で買った弁当を早々に口に詰め込み、カメラを手にしてホテルを飛び出しました。

 

というのも、翌日の計画は、JR「丸亀駅」10時7分発の列車に乗る予定で組んでいたのですが、天守の開館が9時からですので、渦郭式の城内を隈なく見学しようとすれば、麓の「大手御門」が早朝にでも開城されていないと非常に厳しいハードスケジュールになるなー、と思っていました。そのような理由で、夜のこの時間に「大手御門」の開閉状況を確認しておきたかったのです。

 

そして、「内堀」まで近づいてライトアップされた天守を何枚も撮影しながら「大手御門」まで近づくと、開門されていました!

 

ライトアップされた大手御門

 

既に19時は過ぎていましたが、地元の方はその門を抜けて南側の搦手門方向からの行き来往来がされているようです。これはシメタ! と思いました。この門は終日解放されていて通行路となっているようでした。

 

真っ暗な中にも、所々電灯が点いていたり高石垣にもライトアップがされています。「見返り坂」と更にそこから「三の丸」に上る坂を、ワクワク感を押し殺しながら息を切らせて登りました。そして、一応「天守」のある「本丸」跡まで登り、翌日の予行演習を終えて下山をしました。

 

ライトアップされた高石垣

ライトアップされた本丸石垣

 

こんな真っ暗な中で登城している輩(やから)は、私ぐらいではなかったでしょうか。しかし、真っ暗な中に浮かび上がる幻想的な「白さ」には、感動を抑えきれませんでした。

 

ライトアップされた天守

ライトアップされた天守

 

登城時間配分を再確認しての翌朝は、ホテルの素敵なレンストランで、サラダとスープとコーヒー付きの美味しい朝カレーをいただき、また荷物を置かせていただいてのスタートを7時半に切りました。

 

今朝は、大手口から攻めました。というのも、その正面が「大手御門」でそのほぼ真上に「天守」が見えるアングルでの写真撮影をしたいが為にです。

 

大手道から撮影した丸亀城

 

「外堀」跡の道路を「大手道に入り、その両脇は「三の丸」跡ということで、市役所、税務署、学習センター等の行政・文化・教育施設が集まり市民広場が拡がります。

 

外堀跡碑

旧一番丁碑(三の丸跡内、市役所などの行政施設が集まる)

市民ひろば(三の丸跡)

市役所前の公衆電話ボックス(三の丸跡)

 

「中堀」を渡った所が、昨夜開閉を確認した「大手御門」です。当門は、大手二の門が「高麗門」、大手一の門が「渡櫓門」で周囲を土塀で囲い右折れの桝形を形成しています。

 

「名古屋城」も、天守側の「櫓門」を一の門、外側の「高麗門」を二の門と呼んでいるのと同じ呼び方をしていますが、一般的にはその逆の方が多いようです。 「大手御門」は、1670年の「京極家」の時代に建築されたもので重要文化財に指定されています。

 

大手御門(重文)の大手一の門(右)と大手二の門(左)

大手一の門(重文、高麗門形式)

大手一の門(重文、高麗門形式)

枡形内の鏡石

大手二の門(重文、渡櫓門形式)

大手二の門(重文、渡櫓門形式)

大手御門の枡形

 

特徴として、「大手二の門」の控柱の下部は、海風による倒壊を防ぐ為に石で継ぎ柱としています。「大手一の門」は南北十三間もあり冠木の桁材があまりにも長いので継ぎ木をしています。

 

大手二の門 控柱下部の石による継ぎ柱

大手一の門 冠木の継ぎ木

 

「大手一の門」の「渡櫓門」内が当日公開されていて中に入ることができましたが、中には「太鼓」が設置された「太鼓櫓」であることが判りました。更には、外側には八か所の窓があり、内部には石落としを兼ねた「足駄(あしだ)狭間」が設けられているのも確認できました。

 

大手一の門 渡櫓門入口(公開時間前で扉は閉まっている)

大手一の門 渡櫓門内設置の太鼓、京極家家紋「平四ツ目結」が付く提灯

大手一の門 渡櫓門内の足駄狭間

 

昨晩は、「大手御門」を通り抜けた左手から「見返り坂」を上って「天守」を目指しましたが、当日はまだ「天守」は開館していませんでしたので、麓を時計とは反対方向で廻ることにしました。

 

城内案内絵図

大手御門を抜けた広い広場(左へは見返り坂、右へは御殿表門)

 

右手に進むと見えるのが、両脇に建つ白壁の土塀で、そこは天井の無い土橋の「廊下橋」となっています。「内堀」から山側に切り込んだ「あやめ池」に架かる橋となっています。

 

土橋の廊下橋(両脇の土塀の向こう側は堀)

土橋の内側の壁側にはあやめ池(堀)

内堀からのぞむ廊下橋(土橋というものの、外側は石積み)

御殿表門前の曲輪周囲を守る土壁(内堀から)

 

この橋を渡った広場が、「山下御殿」前に造られた「馬出」的な敷地です。

 

そこに現存するのが「山下御殿」の「御殿表門」とそれに併設した形の「番所」と「番所長屋」なっています。いずれも重要文化財に指定されています。「御殿表門」は、非常に重厚で立派な薬医門形式で、「京極家」の屋敷の表門でした。

 

御殿表門(重文、山下御殿の表門、薬医門形式)

御殿表門(重文、山下御殿の表門、薬医門形式)と番所(手前)

御殿表門併設の番所(重文)

御殿表門併設の番所と番所長屋(有形文化財)

 

「番所」と「番所長屋」ですが、「表門」の出入りを管理する今でいうガードマン室のような所で、門番が詰めていました。「番所長屋」は、その門番の休憩場所だったと思います。

 

番所長屋(有形文化財)

 

次回ブログは、山下御殿跡から、途中に高石垣の崩落現場も見ながら、山麓を一周して行きます。

 

 

 

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