昨日は、当初予定していた事が急遽なくなったので、以前より、「明智光秀」関連のお城で、是非登城したいと思っていた「周山(しゅうざん)城」(京都府京都市京北周山町)に行くことにしました。

 

道の駅「ウッディー京北」で貰える周山城址パンフ

 

通常は、じっくり予習して、行く前に一度楽しむのが私のお城巡りの流儀ですが、今回は、出発時間10時までの1時間にHPとお城の雑誌で下調べをしました。

 

公共交通機関で訪城となると、阪急宝塚線→京都線大宮駅→JR西日本バス→JA京北支店前下車からの登山となりますので、10時スタートでは登城時間がかなり遅くなってしまい日照時間の短い1月中旬では避けたい、また交通費もバス代だけで往復2,400円、阪急電車が往復940円になります。

 

そこで、「エネオスドライブルート検索」でルートと距離、所要時間を調べると池田から国道423号線で亀岡経由、国道477号線で京北周山町の道の駅「ウッディー京北」を目指すのが最短であることがわかり、そのルートで行くことに決めました。

 

亀岡までのR423号線は良く使用するルートで安心して進行しましたが、亀岡からのR477線は閉口しました。

 

というのも、国道というものの、途中からは小型車が1台通行できるかどうかの幅で、左は岩がセリだし、右側はガードレールがない所の方が多いクネクネ道で、北山杉が鬱蒼と立ち並ぶ薄暗い中を通行しなければなりませんでした。

 

対向車が来たらどうしょうかとドキドキしながら進みますが、ナビから「5km以上の道なりです」のメッセージ、たまたま少し曲がり道の車幅がある所で軽自動車の対向車が待ってくれていましたが、車はヘッドライトを付けていました。

 

私も、それ以降、ヘッドライトを付けて走行しましたが、幸いにも対向車はあと軽自動車1台と会ったきり、国道にも拘わらず多分10kmの間に2台しか通行がないくらい、地元の人でも利用しない国道ではなかったでしょうか。

 

35km2時間かけて、「ウッディー京北」に着いて昼食の親子丼をかけこみ、レジで縄張りが掲載された「周山城」のパンフレットを貰って、いよいよ登城です。

道の駅「 ウッディー京北(けいほく)」

 

すごい前置きが長くなりましたが、そこから少し歩いた所に登城口があります。ここは、「周山城」の登城口というよりも、「京都1周トレイル」コースの入口になっていますので、途中でも分岐のややこしい場所には表示をしてくれています。

 

下から見上げたら、登城道はツヅラ折れになっているのが判ります。まるで登山の様相で、ネットでも登山靴やツエが必修と投稿されていたのが思い出されました。

ツズラ折れの山道

 

と、その途端に、足元の土がヌカるんでいて、私の運動靴は無残にもツルっと滑り、手の平と手に握っていたパンフが泥だらけ、首からぶら下げていたカメラは辛うじて、底面が泥につくだけでセーフ!でしたが、思わぬ失態を初めから犯してしまいました。

それからは、非常に慎重に前進するようになりました。

 

山の上部に木々が伐採されていたので、そこが主郭だと早とちりしましたが、そこは、貰ったパンフの縄張りで言えば「Ⅰ郭」の手前、そこから上に見える「Ⅱ郭」との間が堀切になっている場所です。かなりの山道を上がってきたので、一服して眼下の風景を写真に納めました。

 郭図(ウッディー京北で貰ったパンフの中に掲載)

伐採された木々

眼下に拡がる光景

「Ⅰ郭」の手前、そこから上に見える「Ⅱ郭」との間が堀切になっている場所

 

更に登り道が続き、「Ⅱ郭」から「Ⅲ郭」の脇の細い道を進みます。この辺りの「トレイル道」はヌカるみはなく草が生えていますので滑る心配はないのですが、かなり細い道、左側は断崖絶壁の北山杉です。

 断崖絶壁の登城道

 

「Ⅲ郭」の入口には、石塁が見られます。そこからの細い登城道は、カシやクヌギの枯葉が道を覆い、少し坂道になっている所は枯葉で滑ります。

「Ⅲ郭」の入口の石塁

枯葉に隠れた登城道

 

 

いよいよ、枯葉に埋もれた石段で「主郭」の一部であるⅢ郭「二の丸(東部分)」に辿り着きます。東側に長く延びる郭ですが、北側にも石段が付く出入口がありました。

 Ⅲ郭(二の丸部)の石段

もう一方の石段入口

 

そこから「主郭」を見上げる形となりますが、至る所に苔が表面を覆う大きめの石が転がります。

 Ⅲ郭(二の丸)から主郭を見上げる

 

「主郭」に上がり左の方に少し高くなっている場所が「天守台」跡のようです。当時の「天守」ですので、まだ、現在あるような「天守」ではなく「楼」のようなものであったのでしょうか。

 主郭内の天守台跡

主郭内の天守台跡

主郭内の天守台跡

主郭内の天守台跡

 

しかし、ネットや本では、入口が3箇所、地下の穴蔵からも入城できたとか、瓦が見つかっているとの記載がありますので、二重の木造天守のようなものが建っていたのかもしれません。

 主郭内の天守台跡の穴蔵

 

「主郭」周囲は土塁なのでしょうか、すこし盛土になりその中には、小さな石が含まれています。

 主郭周囲の土塁

 

「主郭」南側の草に覆われた石段を下りた辺りには、多くの石や石累が「主郭」の壁面にへばりついています。ここから、南側に「Ⅶ郭」が出張っています。

主郭からⅦ郭(南側)に下りる石段

 

主郭南面の石累

「主郭」から西側にかけても郭が延びています。この郭の北面と、「主郭」から北に延びる「Ⅸ郭」の一段目にかけても、非常に幅があり長い「石累」がへばりついています。

 

これを見て、私はワクワク感が募り、少し足場の悪い木屑や枯葉が積もった所に下りて必死になって写真撮影をしました。ここで、足を滑らして怪我でもしたら笑い物だなーと思いながら・・・

西側へ延びる郭の北面と、「主郭」から北に延びる「Ⅸ郭」にかけての石累

 

 

 

しかしながら、パンフレットの載っている「井戸跡」や「水のたまり場」をどうしても見つけることができなかったことが、残念でたまりません。

 

「主郭」北側の尾根沿いに延びる長い「Ⅸ郭」は、六段あるそうです。一段目は、前述の西側の「石塁」の延長で、そこに上がって「主郭」を見上げると、東の郭(二の丸)と同様に多くの石が転がっていました。

 Ⅸ郭一段目から主郭を見上げる

 

「Ⅸ郭」二段目の北面も「石塁」が見られ、そこから段になって郭が拡がります。更に、その北側まで進みますとまた一段下がりますが、北東端には野面積みになった隅部のある「石垣」が築かれているのを確認できました。

 Ⅸ郭ニ段目の石塁

Ⅸ郭三段目の石累の隅部

Ⅸ郭三段目の石累の隅部

 

三段目になるのでしょうか、前述の石垣隅部から北側にかけて土が少し盛り土となり廊下があったような感じで残っています。

 廊下のような石積み

三段目から四段目

 

その先、四段目、五段目、六段目と郭が延びていきますが、五段目以降へは足を延ばしませんでした。

 四段目以北

 

パンフレットには、「主郭」を中心に四方向に延びた郭絵図しか記載されていませんが、この「東の城」の西側には、大きな堀切があって送電線の鉄塔が立っているらしくそのまた西側に「西の城」という郭があると記載されていました。

 

丹波は、「宇津城」の宇津家、「黒井城」の赤井家、「八上城」の波多野家等の多くの豪族が群雄割拠していた所ですが、「明智光秀」は「細川藤孝・忠興」親子の援軍もあって、苦労の末、1579年に丹波を平定しました。

 

「周山城」は、このように「丹後」をほぼ平定したことで、周山街道を丹後と京・若狭を繋ぐ防衛拠点にするようにとのことで、「織田信長」に命じられて築城したもので、この時代にしては珍しい石垣造りのお城です。

 

そして「光秀」は、従兄の「明智光忠」を配置しますが、3年後の「本能寺の変」後は廃城となります。

 

「周山城」から下山した所には、京都京北を代表する「羽田酒造」が、醸造メーカーらしい雰囲気の建物が建ちます。

 羽田酒造

 

近くの「慈眼寺」には、黒塗りされた「明智光秀」の「黒坐像」が釈迦堂に祀られています。古くに「光秀」の人柄を称えて崇敬の念から彫られた坐像ですが、本能寺の変後に逆臣の汚名を着せられてからは墨で真っ黒に塗られてひっそりと祀られてきた坐像だそうです。

 慈眼寺釈迦堂(この中に黒塗り「明智光秀」が)

 

写真撮影ができないとのことでしたので、パンフの写真を拝むことで済ませました。

 

 

「ウッディー京北」に戻り、少し京野菜を買い込んで帰宅の路につきました。帰りは、往路の反省を生かし、R162号線から272号線の王道を利用しました。