「島津家」は14世紀頃から、日本最南端という当時の統治者から遠く離れたことを巧く利用しながら、パワーを蓄積して色々な文化・経済等を取り込みながら拡大してきました。

 

「豊臣秀吉」による九州平定で拡大した領地が没収されたり、関ケ原の戦いによって日本最南端の2.5ケ国に押し込められてきましたが、その位置を巧く活用しながらジワリジワリと力を蓄えてきたことが、「麓」シリーズを投稿する中で実感しました。

 

本日紹介する「都之城」(宮崎県都城市都島町)は、「島津家」の支族である「北郷家」(都城島津家)の「義久」が、1375年に築城した中世城郭のお城で、1615年の「一国一城の令」まで約240年間使用されていたものです。地名である「都城」の名前の起こりでもあるお城です。

 

城郭建造物風の「都城歴史資料館」

 

本丸にあたる「主郭」部は丘陵地の崖を背中にして下段に「帯曲輪」を設けています。

 

主郭跡

帯曲輪跡

 

「主郭」部から西側に向けて「西城」「新城」「池之上城」等の各郭を拡張し、「主郭」の南側には「中之城」「南之城」、更に「外城」等の郭を南から南東にかけて拡大しています。 

 

曲輪絵図 

西城跡

 

「主郭」部は、発掘調査で色々なものが出てきて、「虎口」「土塁」「門」の各跡が整備復元されています。特に「主郭」部の中心的な建物跡も見つかり、比較的大きな建造物であったようです。

 

本丸虎口跡

本丸内の虎口跡

塀跡の土塁

門跡

 

現在は、その建造物跡の上に、城郭建造物風の「都城歴史資料館」が建っていますが、三重三階で切妻破風を左右対称に多用した非常に風変わりな建造物で、当城のモニュメントとなっています。また内部は、木造でオシャレな造りとなっていました。

 

城郭建造物風の「都城歴史資料館」

木造の資料館内、真ん中には島津家家紋が描かれている

城郭建造物風の「都城歴史資料館」

 

この「都城歴史資料館」は、小田原城下にある「復興八棟造り」の「現 ういろう・外郎博物館」の外観の様でもあります。

 

小田原城下の「ういろう・外郎博物館」

 

「都之城」跡の城山公園の入口には、模擬「櫓門」が古式な形式で建てられています。

 

「都之城」跡と城山公園入口の模擬「櫓門」

 

模擬「櫓門」

古式形式の模擬「櫓門」(城側から)

 

1615年以降は、「都之城」から南東の所に「都城麓」(宮崎県都城市御城町)の「領主館」が置かれ、以降幕末・維新まで「北郷家」(都城島津家)34千石の「麓」となり、小大名級の石高を誇っていました。薩摩藩の中でも、最大の藩内領主でしたので、7つの「麓」を傘下に収めていました。

 

現在の「都城麓」の「領主館」跡は、「都城市役所」となっていて、「都城県庁跡」碑が立っています。また、その前の通りから少し東側には「老中馬場」と言われる通りとなり、重臣が多く居住していたところのようです。

 

「都城県庁跡」碑

「老中馬場」

 

城内は、「東・北・西」の3か所に出入口が設けられていて、前述の「老中馬場」の東側には「東口」がありました。そこには「番所」が置かれていて「東口番所跡」碑が立っています。そして丁度その脇には、切石を7段を積上げた壁を両脇に控えた立派な「屋敷門」が建っています。

 

「東口番所跡」碑

「東口番所跡」脇にある「屋敷門」

 

「都城市役所」の脇を南北に走る幹線道路は「御屋敷通り」と言われ、「領主館」を南北に通っていた道で、「表門」が東向きに建っていたそうです。

 

「御屋敷通り」

 

現在のこの道路の少し北側に行った所には、「島津家米蔵屋敷門」が現存していたようでしたが、残念ながら見落としてしまったようです。

 

 

その他に、「都城」の見所は、「都城島津家」の「島津邸」があります。

 

こちらについては、次回のブログで紹介したいと思います。

 

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