昨日は急遽思い立って、「続日本100名城」の「飯盛(いいもり)城」(大阪府四条畷市・大東市)へ登城しました。

 

高櫓郭跡に立つ「飯盛城址」碑 

飯盛城址案内マップ(高櫓郭内に掲出)

 

前々から登城しようと考えていましたが、詳細な調べもせずに準備はしていませんでした。しかし、なんの調べもなしに出掛けても見るべき所が解らないだろうと思い、1時間でPCやお城雑誌から郭図と見るべき遺構の情報収集とそのプリントアウトをして臨みました。

 

「飯盛山城」への登城方法は、JR学研都市線の「四条畷駅」からか「野崎駅」からの2コースあるようでしたが、快速が停車する「四条畷駅」で下車した方が観光協会的な所がありパンフレットもあるだろうとの思いで、前者を選びました。

 

しかしながら「四条畷駅」には、観光パンフを置いているような所がなく、仕方なく駅員さんに、飯盛山への地図がないかと伺ったところ、「飯盛山ハイキングマップ」なるものをいただき、それを参考にして進みました。

 

駅で貰った飯盛山ハイキングマップ

 

「楠木正行(まさつら)」を主祭神とする「四条畷神社」の脇からがハイキングコースです。

 

四条畷神社

 

「マップ」には、かなりきつい坂ですとの記載で覚悟はしていましたが、標高315mの飯盛山登山は、当初は石の階段からでしたが、ずんずんと木で作った階段も間隔が狭まる作りとなり、前を見上げると挫折しそうな位の急坂、足元を見ながら登り途中数回のひと休みを繰り返しながらの登山となりました。

 

山に張り付いた木の階段

 

ここで、「飯盛城」の歴史、城主について触れておきます。

築城は、建武年間(1334年~38年)と言われていますが、「太平記」の記載では、南北朝時代に「南朝方」のお城であり、「飯盛山」を巡っての攻防が度々あったようです。

 

その後戦国時代になり、河内守護は「畠山家」でしたが、守護代であった「木沢長政」が実権を握り「飯盛城」の城主となりますが、国の支配を巡って「畠山家」重臣達と抗争を繰り返します。

 

その重臣の中から、戦国大名となった「三好長慶」が1553年に上洛をして高槻の「芥川山城」に入り、続いて1560年に「飯盛城」へ居城を移します。1564年に「長慶」は病死すると、「三好三人衆」によって「長慶」の養子である「義継」を担ぎ、「飯盛城」から「高屋城」に移り、摂津・河内を配下に納めた「織田信長」の命で廃城となります。

 

さて戦国時代に「三好長慶」によって軍事上の要塞化をした「飯盛城」は、最北の郭が「北の丸一の出郭」で、そこから南に向かって「北の丸郭」「御体塚(ごたいつか)郭」「三本松郭」「穴口郭」「展望台郭」「高櫓郭」「千畳敷郭」「千畳敷出郭」が並ぶ「連郭式」の縄張りになっています。そして何よりも興味を引いたのが、「織田信長」が建てた「安土城」よりも前に、50か所以上の石垣を多用していたお城だっということです。

 

縄張図(展望台郭に掲出、南北の郭が良くわかる)

 

「四条畷神社」からかなり登りきった所が「北の丸郭」で、私は登城途中で何度も立ち止まりましたが最初の休憩所でもあります。ここからの眺めは、大阪平野は勿論、京都方面まで眺めることができます。

 

北の郭跡

北の郭からのぞむ大阪平野

 

また、ここに1924年に立てられた「飯盛山史跡碑」があります。碑文を読むことができませんでしたが、帰宅して調べると、建武年間から織田信長による廃城までの「飯盛城」の歴史が刻まれているとのことです。

 

飯盛山史跡碑(北の郭内)

 

 

「飯盛城」に続きます。<HTTPエラー405とかでアメブロ側で、情報量が多く一度に投稿できないようです>

 

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