「譜代大名のお城シリーズ」の本日は、「撫川(なでかわ)城」を取り込んで築城された「庭瀬陣屋」(庭瀬城、岡山県岡山市)を紹介します。
現在 清山(すがやま)神社境内(堀と舟入場)、向こうの森は撫川城跡
16世紀中頃に、「庭瀬城」として築城したのは、「宇喜多直家」の攻撃に備えた備中成羽城主「三村家親」でした。
「豊臣秀吉」による中国地方攻略の「備中高松の役」の時に、毛利方の国境警備のお城として家臣が守りましたが、役後は「直家」の持ち城として「岡山城」の支城となり、「庭瀬城」の西にあった「撫川(なでかわ)城」を本丸にして石垣を積み、櫓などの城郭建造物も建てて近世城郭に仕上げていきます。
撫川城跡、北西隅の櫓台と思われる石垣
撫川城跡、南西隅に高さ4mの石垣(野面積み)
撫川城跡、南東隅の土塁
撫川城跡、泥沼池に築城された沼城、東西77m×南北57m、幅15mの堀が周囲を取り巻く
1602年には、「戸川達安」が入城して「陣屋」として整備されました。しかしその後、1679年から約20年間は、「戸川家」の旗本領、天領、「久世家」、「松平家」と城主が変遷して、1699年に入城した「板倉家」によって、その後幕末・維新まで統治されるようになりました。
この「板倉家」は、江戸時代初期に京都所司代を務めて、「天皇・皇室方を抑える」ことに尽力した「板倉勝重」の次男の系統になります。
「戸川家」の旗本領時代には、「撫川(なでかわ)城」に「知行所」を置いて統治していました。その時に使用していた「撫川知行所の総門」が、現在の「撫川古城」の入口に移築されています。
撫川知行所の総門(薬医門)
「庭瀬陣屋」は、低湿地であることを利用して何重もの「堀」で囲うとともに、「折れ」も採り入れて横矢を利かせたりしましたので、お城に近い縄張りになっていました。
「陣屋跡」は現在、「清山(すがやま)神社」境内と、境内南の住宅街となっています。「清山神社」は、1792年に「板倉勝喜」が祖先を祀る為に建立したもので、現在は「庭瀬城跡」碑が立ちます。また、その手前には、幅広の「堀」が拡がっています。
清山(すがやま)神社境内にある城跡碑(鳥居の右側)
清山神社の裏側、堀で囲われる
住宅内に沼地の堀
「陣屋」跡の北側には、街道が通り抜けますので、街道沿いに残る街並みは海鼠壁を持つ町家が建ち並んだり、瀬戸内海から水郷地帯を抜けてここまで船を乗り入れることができたことから、「常夜灯」も置かれて水上交通も発展していたようです。
旧い街並みの通り (酒屋、味噌屋)
旧い街並みのある通り(陣屋北側にある海鼠壁の家)
旧い街並みのある通り
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