譜代大名のお城シリーズ、今回は「備中松山城」(岡山県高梁市)に登城します。

 

日本三大山城の一つの現存天守

 

まさに「登城」の言葉に相応しく、標高430mの山頂にあがる現存で重要文化財の「天守」を持つ「山城」です。

 

戦国時代以前には、「高橋家」が築城して「秋庭家」や「上野家」等が入城しましたが、戦国時代に入り、「毛利家」の傘下で「三村家」が城整備を行いました。その後、、「三村元親」は「織田信長」方に寝返えりましたが、「小早川隆景」によって攻められ自害しました。

 

関ケ原の戦いの後は、幕府直轄地となり「小堀家」が城代として入り、麓に「御根小屋」が建てられました。1617年には「池田長幸」が入城したのを皮切りに、「水谷勝隆」が天守を建てて大修築が行われます。

 

「水谷家」は3代続くも嗣子なく廃絶となり、赤穂城の「浅野長矩」が城の受取りを命じられ、家老の「大石良雄」が城番となって滞在しました。

続いて、1695年から「安藤家」「石川家」を経て1744年には「板倉勝澄」が5万石で入封し、以降は「板倉家」が幕末・維新まで統治を続けます。

 

戊辰戦争では、備中松山は朝敵と見られていましたが、藩執政で陽明学者「山田方谷」の意見により無血開城を果たしました。

 

「備中松山城」は、麓には「御根小屋」を置いて藩政を執り行う御殿が建ち並びました。現在は、岡山県立高梁高校の敷地となっています。また、JR伯備線の線路近くまで「中御門」の階段が迫っています。

 

御根小屋にあった御殿図

御根小屋の石垣

御根小屋の中御門跡と復元土塀(階段下にJR伯備線が走る)

 

「御根小屋」から臥牛山山頂へ向かう登城路の途中には「中太鼓櫓」が、戦時の前線に備えて建てられ、現在は石垣と碑があります。

 

備中松山城がある臥牛山

 

いよいよ山頂に辿り着きますと、「連郭式」曲輪で城郭建造物が並びます。「大手門」は、十間の長さの「渡櫓門」が構え虎口となっていて、その中に「番所」が置かれていました。

 

大手門跡、三の丸跡、厩曲輪跡

 

「大手門」から入城して左手へ曲がりますと「二の平櫓」が「大手門」に睨みをきかしていました。

 

「大手門」跡付近から右手を見上げた所には、折り重なるように「三の丸石垣」「厩曲輪石垣」「二の丸石垣」が見えます。特に、最上階にある「二の丸石垣」の上には、現存で重要文化財の「土塀」と復元の「土塀」が共存していますが何の違和感もありません。

 

この見上げるシーンこそが、3年前のNHK大河ドラマ「真田丸」のオープニング映像として使用されていたアングルです。

 

上から、三の丸石垣、厩曲輪石垣と土塀(左復元。右現存)

 

「大手口」から「三の丸」へ至る石段は、高さが異なるように積まれていて、攻め入る敵方が上りにくいように仕掛けられています。また「土塀」が「三の平櫓」まで石段沿いに建っていますが、こちらも手前の「土塀」が既存部分で重要文化財に指定され、奥が復元「土塀」となっています。

 二の平櫓と三の平櫓の間の東土塀(手前現存で重文、奥は復元)

 

右手の「三の丸」には、「足軽番所」や「上番所」が置かれた曲輪になっています。その左手の石垣は、「厩曲輪」が長く延びてその先には、「大手門」跡から見上げて見えた「土塀」が並びます。

 

三の丸跡で左は厩曲輪石垣

 

どんどん石段を登り「黒門」跡を監視する「四の平櫓」跡を左に見ながら足を進めると、「二の丸」の出入口として機能している「鉄門」に至ります。

 

「二の丸」は結構広いスペースを取ってますが、西南隅には「物置」や「雪隠(せっちい)」が置かれただけで、そこから「本丸」を見上げる眺めは、よくメディアの写真で見る光景となっています。

 

「二の丸」跡から見上げる「本丸」跡は、右側から復元された「五の平櫓」「表門」「六の平櫓」が入口部分を抑えています。「表門」前の「土塀」に囲われた三角形の敷地は、「鎬(しのぎ)馬出」と呼ばれる出張りです。非常に珍しい仕掛けとなっています。

 

右から天守、五の平櫓、鎬(しのぎ)馬出、表門、六の平櫓(天守以外は復元)

五の平櫓(復元)と天守(重文)

左から 五の平櫓、表門、六の平櫓(全て復元)

 

いよいよ「本丸」ですが、この中には上記の櫓以外に「七の平櫓」と「八の平櫓」が在りましたが、現在は復元されていません。

 

「本丸」正面は、少し高い位置になっている「天守曲輪」で、現存で重要文化財の二層二階の「天守」がどっしりと構えています。

 

天守正面を見ると、壁の下は「下見板張り」で、一階には「大唐破風」を付け、窓は「連格子」と「出窓」をあしらっています。正面の左右ともに出張って見えますが、右側は天守の一部であり、北側にも天守の出張りがあります。左側は「接続廊下」部分で、本来ならばその手前にあった「多聞櫓」と、それに続く「八の平櫓」が繋がっていたそうです。

 

天守(重文、二層二階)

天守と繋ぎ廊下、手前に多聞櫓、八の平櫓が続いた(左)

復元北門と天守北面で中は装飾の間、右は接続廊下

 

「天守」内部一階の特徴として、籠城用の長方形をした「長囲炉裏」が東側に造られています。また、北側の出張った一段高い所には、城主が最後の時にここで装束を改める目的で造られたそうです。

 

天守内部 (1階の長囲炉裏)

天守内部1階

天守内部1階

 

二階の特徴は、北側に「御社壇(ごしゃだん)」という十神を祀る神棚が設けられ、城主出陣の際にはこちらで戦勝祈願をする為に造られたものです。

天守内部 2階への階段

天守内部2階

天守内部 2階御社壇

 

「天守」の後ろには、これも現存で重要文化財の「二重櫓」が、岩盤上に石垣を積んだ上に建ちます。「後曲輪」からの門の替わりも兼ねていたようです。「天守」と「二重櫓」を囲う「土塀」と「水の手門脇曲輪」に繋がる「北門」が復元されています。

 

二重櫓(重文、北側から)

二重櫓(重文、天守側から)

復元北門と復元土塀

 

また「本丸」の東側下段に細長い「二の丸帯曲輪」が取巻いていますが、「本丸」からの出入りができる「東門」が復元されています。

 

復元 本丸東門

 

「天守曲輪」の北側には、「後曲輪」と「水の手門脇曲輪」を構えていました。その中には、各々に「九の平櫓」と「十の平櫓」が建てられていました。

 

「水の手門脇曲輪」内に建てられた「水の手門」からは、更に背後に造られた「大松山(だいまつやま)城」に繋がる山道となっていますが、そちらの方へは足を延ばさず、見所が多い麓の城下を散策しました。

 

城下は、冒頭で記載した「根小屋(ねごや)」から南側に「武家屋敷」街が拡がり、現在でも城壁や土塀を各所で目にすることができます。また、海鼠壁を持つ商家などが城下町の雰囲気をより濃厚に演出してくれています。

 

武家屋敷

西村亭

紺屋川沿いの海鼠壁を使った商家

 

最も印象的であったのが、南側の山沿いに並ぶお寺群で、特に「薬師院」「松蓮(しょうれん)寺」は、西側から遠望すると三段になった石垣の上に、白壁の土塀が直線的に建てられていて、その光景はまるで城郭のようでもあります。そして、実際にも「頼久(らいきゅう)寺」の山門は、枡形虎口を備えています。

 

薬師院(右側)

松蓮寺

 

寺町と言えば、平面的にお寺が並んでいる城下が大半ですが、「備中松山」城下の寺町では、第二のjお城的な位置づけになり、お城の南側の堅固な守りを担っていました。

 

日本三大山城の一つで且つ現存天守が残る唯一の山城の謳い文句である「備中松山城」は、城下町全体の縄張りは勿論のこと、作事面(建造物)でも普請面(石垣等の土木物)でも最高のモノを採り入れて戦いをする為に建造されたお城であることを、現代の我々に良く伝えて理解できるように残ってくれているお城であると思いました。

 

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