「譜代大名のお城シリーズ」の前回ブログ「浅尾陣屋」の紹介の中で、幕末に「陣屋」が焼失した原因を「長州藩の浪人達による襲撃」と記載していましたが、フォロワーの方からのご指摘で、「長州藩騎兵隊の、ある幹部に率いられ脱走した藩士達による襲撃」とのことでした。
「浅尾陣屋」への襲撃の前には、幕府直轄地を統治していた「倉敷代官所」(岡山県倉敷市)も襲撃されました。
今回は、その「倉敷代官所」を紹介します。
「代官所」とは、幕府直轄領地(天領)に幕府から「代官」が派遣されて、年貢の徴収等の行政管理や警察・裁判も一部行い領民を統治しました。このような機能から、江戸時代のお城機能と似ていますので、広義のお城とも言われます。
元々は、江戸時代の初めに幕府領があった「倉敷村」に、周辺に点在する「幕府領」を含めて統治する為に「倉敷支配所」が置かれました。
倉敷美観地区(倉敷川に架かる中橋、明治10年築の太鼓橋)
その後、「倉敷支配所」が統治した地域は、大名領となったり幕府領となったりと変遷がありましたが、幕府領となって出張所的な陣屋を置いていた1746年に、新たに「代官所」に改装して規模の拡大が行われました。それ以降は幕府直轄の「代官所」として機能し、幕末まで続きますが、前述のように1866年の襲撃事件(倉敷浅尾騒動)によって、焼失してしまいます。
倉敷美観地区 (倉敷川に架かる今橋)
今橋からの光景
「倉敷代官所」の絵図「倉敷陣屋図」が残りますが、ほぼ正方形の敷地の西側と南側は外堀に囲われ、内部の東側には「代官邸」を建て、公館である「御役所」が北と西側に置かれました。また敷地内には「明倫館」の「講堂」と「校舎」が建てられていました。
代官所建物と現在の建物との配置関係図
明治時代になり「代官所」跡は、「倉敷紡績所」となって紡績業の繁栄とともに、倉敷の街全体にも豊富な富が行き渡り繁栄しました。
「倉敷紡績」跡は、現在「アイビースクエア倉敷」の敷地で、ホテルを中心にレストラン、結婚式場、「倉紡記念館」などが集積した複合観光施設となっています。
倉敷代官所跡(現 アイビースクエア)
その中の片隅には、「代官所」の遺構を見つけることができます。
「石碑」や「井戸」跡、水路になった「堀」跡がひっそりと、当時「代官所」であったことを伝えてくれます。
倉敷代官所跡(現 アイビースクエア、代官所跡碑)
倉敷代官所跡(現 アイビースクエア内西入口すぐにある代官所井戸)
倉敷代官所跡(現 アイビースクエア、石橋と堀、左は児島虎次郎記念館、右は倉紡記念館)
倉敷代官所跡(現 アイビースクエア)石橋と堀跡
また、繁栄した当時の倉敷窓や格子が嵌め込まれた「商家」や、なまこ壁を持つ「蔵」等が美しく並ぶ「町割り」が施され、商品を水路沿いに運び出し入れができるように「荷捌き場」が設けられるなど、現在でも美観地区として保存されていて、観光客も非常に多く押しかけるエリアになっています。
米倉を改装、白壁に黒の貼り瓦
倉敷美観地区の建造物
倉敷美観地区の建造物
倉敷美観地区の建造物
今橋から中橋をのぞむ(川の左に雁木で江戸時代のそのままの石段、荷物の積み下ろしに使用
倉敷 大橋家住宅(重文、倉敷市阿知3丁目)
倉敷 大橋家住宅(重文、土蔵造りで海鼠壁がある米蔵)
倉敷 大橋家住宅(重文、上の間の床の間をのぞむ)
倉敷大橋家住宅(重文、座敷縁側から書斎を見る)
倉敷大橋家住宅(重文、母屋内の坪庭で採光と風通しを良くする)
倉敷大橋家住宅(重文、母屋内で土間からのぞむ)
以上の写真は、少し古いですが、ご勘弁を。
「代官所」には、「倉敷代官所」以外にも全国に多く置かれていました。「五条代官所」「水原(すいはら)代官所」「駿府代官所」「中野代官所」などがあります。
また、「代官所」よりも、ずっと大きな領地を支配していたのが、「高山陣屋」「日田陣屋」などです。
またこれらを、シリーズで紹介していきたいと思います。
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