譜代大名のお城シリーズ、今回は兵庫県宍粟郡に2箇所ある「安志(あんじ)陣屋」と「山崎陣屋」を紹介します。

 

「安志陣屋」(兵庫県宍粟郡安富町安志)は、1717年に「小笠原長興」がこの地二陣屋を築いて統治しました。

 

大坂の陣で活躍した「小笠原長次」は「龍野城」から「小倉城」へ移封になります。その他にも「小笠原家」は、「松本城」を築城した「小笠原貞朝」、「明石城」主となった「小笠原忠真」と、徳川家を支える名門家でありました。

 

しかし「小倉城」の城主となった「長次」 の五代目に継嗣がなくて改易となるところを、名門「小笠原家」ということで、五歳の幼い「長興」を据えてお家断絶を免れますが、大幅な減封で「安志陣屋」に入ります。

 

「陣屋」は丘陵上にあり、南に城下を見下ろしました。西から北側は土塀を設けて、南にあった「大手門」は竹矢来を廻らしていました。

 

街路は「大手門」から「御殿」前を通り、「北門」へ抜ける南北のメイン通りがあり、途中3度クランクしていました。 東西の通りは南北筋と直交して、ほぼ碁盤目状になっています。

 

御殿の「表門」前の筋に平行して 土塀が廻らされ、枡形のようになっていました。

 

現在は、安富中学校とそのグランドになっていて、グランド入口付近には「陣屋跡碑」が立ちます。

 

安志陣屋跡碑(安志中学校)

安志陣屋跡(安志中学校グランド)

 

また、近くの「真光寺山門」(兵庫県宍粟郡安富町長野) に「陣屋門」が移築されています。

 

安志陣屋門(真光寺山門)

安志陣屋門(真光寺山門)

 

「山崎陣屋」(兵庫県宍粟郡山崎町鹿沢)は、「羽柴秀吉」によって落城した赤松家傘下の城に替わり、「木下勝俊」とその後入城した「池田輝澄」(池田輝政の子)が鹿沢の地に築いたお城「鹿沢城(山崎城)」の「本丸」跡に建てられた陣屋です。

 

鹿沢城(山崎城)の「本丸」跡碑

 

「鹿沢城(山崎城)」は、揖保川の河岸段丘の南側に築かれました。「本丸」を中心に、西に「三の丸」、東に「二の丸」を置き、「二の丸」の北側には「大手門」を枡形で築きました。城内には二重櫓や平櫓が数基建てられ、川沿いには石垣を築いていました。

 

三つの曲輪の間には、揖保川から引き込んだ水を活用した「水堀」を設けていました。

 

山崎陣屋内絵図

 

しかしながら、「鹿沢城(山崎城)」の城主だった「池田家」は嗣子なく断絶となったので、お城は未完成のまま暫く放置されていました。

 

1679年に「本多忠英(ただひで)」が、1万石で当地に入城したことから、居館を「鹿沢城(山崎城)」の「本丸」だった場所を「陣屋」として使用して、幕末まで続きます。

 

紙屋門の解説と瓦には本多家家紋「立ち葵」

 

現在は、「本丸」跡が「本多公園」となり、その他の曲輪は「山崎小学校」「山崎中学校」の敷地になっています。

 

城内にあった「紙屋門」は、図書館前に移築され、その両脇には城壁が復興されています。また、本多公園の南側では、虎口の石垣が復元されています。ただ、「切込接(はぎ)」「布積」で完璧なまでの積み方で復元されていますが、あまりにも整然としているので、ちょっとスッキリしない積み方です。

 

山崎陣屋門(紙屋門)

山崎陣屋門(紙屋門)

復元の虎口石垣

表御門付近の復元石垣

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