昨日の続きで、「名古屋城」(愛知県名古屋市中区)の「本丸御殿」内を見学します。
本丸御殿上洛殿「上段之間」
本丸御殿の内部平面図
三期に分けた木造復元で、一期目(玄関、車寄、中之口部屋、表書院)と二期目(対面所、下御膳所、上台所、梅之間、鷺之廊下)は既に訪問していましたが、昨年(2018年6月)にグランドオープンを果たした三期目(上洛殿、湯殿書院、黒木書院、上御膳所等)は、今回が初めてです。
もう一度、一期目から簡単に見ていきます。一期目の目玉は、「玄関」と「表書院」
「玄関」の役割は、「本丸御殿」に訪れた者が通され、対面を待つ場所です。「一之間」と「二之間」から成り、手前の「一之間」には床の間や違い棚を備え、襖や壁には、金地の中に「虎」や「豹」が描かれ、訪問者に対して威圧感を与えます。
本丸御殿玄関「二之間」
本丸御殿玄関「一之間」
「表書院」は、「玄関」から「大廊下」で繋がり、その役割は、正式な謁見の場所で、「本丸御殿」の中では最も広い建物で「大広間」とも言われます。「表書院」の構成は、「三之間」「二之間」「一之間」と並び、藩主が坐する為に一段高くなっている「上段之間」があります。
本丸御殿表書院「一之間から二之間、三之間をのぞむ」
「上段之間」には、左から「付け書院」「床の間」「違い棚」「帳台構え」となっていて、「帳台構え」の奥は「納戸之間」となっています。
本丸御殿表書院 (一之間と上段之間)
本丸御殿表書院 (上段之間の床の間)
本丸御殿表書院 (上段之間の違い棚と帳台構え)
襖や壁に描かれているのは「花・鳥・麝香猫(じゃこうねこ)」等が描かれて、美しさが目立ちます。
二期目の目玉は、「対面所」と「下御膳所」、「鷺之廊下」、「梅之間」等です。
「対面所」の役割は、藩主とその家族との私的な対面、家臣との私的な対面、更には宴席をする場所として使用されました。
壁や襖絵には、「上段之間」は、四季の京都の風物と名所、「次之間」は和歌山の風物と名所が描かれています。ほぼ生活の場として使用されていたので、落ち着いた四季が描かれています。
本丸御殿対面所(周囲の襖絵は、上段之間は京都の風景、次之間は和歌山の風景が描かれている)
本丸御殿対面所(次之間は和歌山の風景)
本丸御殿対面所(次之間は和歌山の風景)
本丸御殿対面所(上段之間は京都の風情)
本丸御殿対面所(上段之間の二重折上げ小組格天井)
「鷺之廊下」は、「対面所」と「上洛殿」とを繋ぐ廊下で、壁には「鷺」の絵が描かれています。また、その北側は「梅之間」になっています。
上洛殿と対面所を結ぶ鷺之廊下
本丸御殿梅之間(鷺之廊下の北側の部屋)
「下御膳所」の役割は、藩主等が食事を執る際に、食事の温めや配膳をした場所です。
下御膳所
三期目の目玉は、「上洛殿」と「湯殿書院」「黒木書院」等で、今回初めてそのエリアに入ります。
「上洛殿」の役割は、1634年の三代将軍「徳川家光」の上洛に併せて増築しました。
「上洛殿」の構成は、「三之間」「二之間」「一之間」と並び、「一之間」の北側には「将軍」が坐する為に一段高くなっている「上段之間」を備え、その右手には「納戸之間」「松之間」が続きます。
本丸御殿上洛殿(南側の廊下突き当りの欄間彫刻)
本丸御殿上洛殿(一之間から三之間方向)
本丸御殿上洛殿 (一之間から上段之間をのぞむ)
本丸御殿上洛殿 (一之間から上段之間)
本丸御殿上洛殿 (上段之間で襖絵は「帝冠図」は狩野探幽作)
本丸御殿上洛殿 (一之間から上段之間の帳台構え)
本丸御殿上洛殿 (上段之間の帳台構え)
本丸御殿上洛殿 (二之間と右に三之間)
「襖絵」や「天井板絵」、「欄間彫刻」や「飾金具」は、どれを取っても細部まで豪華絢爛で、贅の限りを尽くしています。「上段之間」に描かれた「帝冠図」や「雪中梅竹鳥図」は、「狩野探幽」によって描かれました。
本丸御殿上洛殿 (三之間の天井)
本丸御殿上洛殿(上段之間の折り上げ格天井)
本丸御殿(上洛殿の釘隠し)
「湯殿書院」と「黒木書院」へは、「上洛殿」と廊下によって繋がっていますが、見学の際は、一旦スタート場所であった「中之口部屋」へ戻り外へ出て、「車寄」「玄関」前を通り「表書院」「対面所」「上洛殿」の建物が建つ南側を歩いて、「湯殿書院」の南正面に向かいます。
「湯殿書院」の役割は、前述の「上洛殿」の役割と同様で「家光」上洛時に造られたモノです。中は、「一之間」「二之間」及び「上段之間」、「湯殿」で構成されています。
「湯殿」は、将軍専用の風呂場で、表には唐破風を施した湯殿入口から中に入りますが、湯船はなく「サウナ式蒸し風呂」でした。そして「将軍」が風呂上りに涼み休息をとる部屋が「上段之間」でした。
本丸御殿湯殿書院(唐破風が付く湯殿、蒸し風呂形式)
本丸御殿湯殿書院(古写真)
本丸御殿湯殿書院(上段之間)
本丸御殿湯殿書院(一之間)
将軍が利用したのは、「家光」の上洛時だけで、幕末まで将軍が上洛することなく、14代将軍「家茂(いえもち)」や15代将軍「慶喜」は、この風呂の利用はなかったようですので、約250年間で「湯殿書院」は数回のみしか利用されなかったようです。
「黒木書院」の役割は、こちらも「家光」が上洛の際に建てられた書院で、上洛時の寝室に使用されたようです。この書院のみ良質な松材が用いられ、松の色が黒色していたので「黒木」と命名されたそうです。またこの書院は、「清須(洲)城」(愛知県清須市)内の「家康」の宿舎が移築されたモノとの伝説があります。
「黒木書院」の襖絵は、風格のある水墨画が描かれていて、将軍の寝室として落ち着いた格式高いデザインになっていました。
黒木書院(奥から一之間、二之間)
「湯殿書院」の南西隅に建つ「南西隅櫓」の内部を公開していました。次のブログで中を見ていきます。
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