「夏恒例のお城巡り」は、いよいよ「名古屋城」(愛知県名古屋市中区)の「本丸御殿」です。

 

本丸御殿「対面所」前から天守群をのぞむ

 

3日目早朝から、雨中の「苗木城」訪問を終え、JR中央本線中津川駅を後にして、名古屋方面を目指します。

 

豪雨のため「プラン表」予定時間から1時間余り遅れましたので、「小牧山城」の訪問は諦め、時間に余裕をもたせての「名古屋城本丸御殿」巡りに変更しました。

 

JR「大曾根駅」で昼食をとり、地下鉄「名城線」に乗り換え「市役所」駅で下車、「名古屋城本丸」に最も近い「二之丸東鉄門」から入城します。

 

二之丸東鉄門跡手前の二之丸堀(南側、箱堀)

二之丸東鉄門跡(枡形)

 

いつも思うのですが、駅名はズバリ「市役所」。

「市役所前」でもなく「〇〇市役所」でもない駅名、名古屋は割と「日本一指向」或いは「日本中心指向」が強いと言われていますが、この駅名もその表れではないかと思います。「市役所」と言えば、名古屋市役所だぎゃ!

 

七代尾張藩主だった「徳川宗春」は、当時の江戸幕府八代将軍「徳川吉宗」の「質素倹約政策」「財政緊縮策」に対抗して、当時の日本では唯一、今でいう「規制緩和策」や「経済拡大策」を採った藩主だったとのことです。この中央への対抗思想が、今の名古屋には受け継がれているのかもしれません。

 

「名古屋城」には、2年間の名古屋転勤時代含めて10数回来ていますが、何度来ても見るところが豊富なので飽きることはありません。

 

「本丸御殿」へ辿り着くまでの両脇には、「二之丸御殿と二之丸庭園」跡(一部復元)、織田信長が最初に居城した「那古屋城」跡碑、城普請した「加藤清正石曳の像」、本丸入口である「本丸表二之門」前とその南側に残る「本丸馬出」跡、重文で二重三階の「東南隅櫓」、そして少し西側にはこれも重文で二重三階の「西南隅櫓」がのぞめます。

 

二之丸御殿跡・復元二之丸庭園

那古屋城跡碑

加藤清正石曳の像

大手馬出跡

大手馬出跡 (右の石垣部分、東側が残る)

東南隅櫓(重文)

西南隅櫓(重文)

 

埋門で高麗門形式の「本丸表二之門」の正面には、鏡石が嵌め込まれ枡形になり、右手には「本丸表一之門」だった櫓門台が目に入ります。

 

本丸表二之門と土塀(重文、埋門)

本丸表二之門(重文、埋門で高麗門形式)

本丸表一之門(櫓台、枡形)跡 

 

そして左に曲がった所に、復元「本丸御殿車寄・玄関」が迎えてくれますが、入館は右手方向に進み「中の口部屋」がある建物入口からとなります。ただ、内部への入場制限を採るために、「大天守」と「小天守」がのぞめる空き地で並ぶことになります。

 

本丸御殿「車寄、玄関」

復元下御膳所と対面所と孔雀之間・柳之、間、奥に大・小天守

 

雨が降っていて入場者も多くないのですが、それでも10分位並び約15名ずつをグループにして入場しました。

 

本丸御殿への入場待ち

 

「中の口部屋」で、傘、靴、リュックを預けて復元「玄関」に進みます。入場制限をかけているので、割とゆったりと見れたり撮影したりできました。

 

中之口部屋(現在は、荷物や靴預かりのロッカー置き場に使用)

 

さて、少しだけ「尾張藩」と「名古屋城」のことに触れますと、ご承知の通り「徳川家康」が「徳川家」存続の為に「御三家」を設けます。

 

その一つとなった「尾張藩」には、当時まだ「豊臣方」が「大坂城」で健在だったことから、「家康」が天下普請で「名古屋城」を築城させて「家康」の九男「徳川義直」を入城させます。

 

「名古屋城」の規模は勿論のこと、「大天守」は当時としては「江戸城」「大坂城」に次ぐほどの大きさで、1657年の大火による「江戸城天守」焼失と1665年の大火による「大坂城天守」焼失後は、約280年もの間、日本NO1の大きさと、屋根上の「金の鯱」とともに日本全国一番のお城を誇っていました。

 

しかしながら、国宝にも指定されていた「天守群」や「本丸御殿」その他多くの「櫓」と「門」が、太平洋戦争による爆弾投下で焼失してしまいました。

 

その後、昭和34年に「大天守」「小天守」がコンクリート造りで外観復元されていましたが、今「天守群」の老朽化に伴い木造復元する話が進んでいます。

 

取り壊しを待つ外観復元コンクリート造りの大天守

 

そして、「本丸御殿」の木造による完全復元に向けて、平成21年から順次復元工事が始まり、第一期に「玄関」「表書院」等が、第二期では「対面所」「下御膳所」等が、そして平成30年6月に「上洛殿」「湯殿書院」「黒木書院」等が完成してグランドオープンしました。

 

本丸御殿「表書院」(玄関前から)

本丸御殿「中之口部屋がある建物」

本丸御殿「下御膳所(手前)」)「対面所」

本丸御殿「表書院」

本丸御殿「上洛殿」

本丸御殿「湯殿書院」

 

「本丸御殿」とはなんぞやと思われている方へのちょっとした情報提供です。

 

戦国時代には、お城は自分の領地を脅かす敵に対する防御の為や、逆に攻め入る為の拠点として築城されていましたが、戦国時代末期から安土桃山時代にかけて、お城を中心に家臣を始め民衆や商人をお城内(城下)に集め、城主又は領主は彼らを統治するようになり「城主」は「居館」を設けてそこに居住するようになります。

 

更には、江戸時代も1615年の「大坂の陣」以降は殆ど平和な時代が続くようになりますと、お城は戦闘による防御施設から、民衆や商人達の平和のシンボルにもなり、城主(藩主)は、政治・行政等を家臣を使って行います。そこで、政治・行政を行う役所が必要となり、城主(藩主)の生活の場所やその家族が住む場所と併せて「居館」から「御殿」に進化していきます。

 

将軍が住み、政治・行政の中心地としての「江戸城」には、多くの「御殿」が建ち並んでいましたが、「名古屋城」にも「本丸御殿」や「二の丸御殿」等が建っていました。名古屋城の「本丸御殿」は、「来客」や「重臣」との重要案件の相談場所として使用されていたと思いますが、もう一つの目的である三代将軍「徳川家光」の「京」への上り下りする途中の宿泊場所として造られたそうです。

 

ですので、政治・行政を執り行っていた藩士達は「二の丸御殿」で働いていたようです。

 

二之丸御殿図

 

ということで、前置きが長くなりましたが、「本丸御殿」の中に入っていきたいと思います。

御殿の内部は「次のブログ」からお送りします。

 

 

 

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