夏恒例の「お城巡り一人旅」2日目は、「長篠城」から11時頃にJR東海「豊橋駅」に到着しました。

 

吉田城」(愛知県豊橋市)へは、「豊橋駅」から「豊橋鉄道市内線」のチンチン電車で「市役所前」まで向かいました。

 

こちらの城へは、20数年前の名古屋転勤時数に2~3回訪問したことがありましたが、今回は縄張り図を片手に詳細に見ようとの思いでのぞみました。

 

吉田城の縄張図

 

「吉田城」の歴史と城主についてですが、古くは1500年初めに「今川家」の傘下であった「牧野家」が「今橋城」を築城しました。その後、「松平家」「戸田家」とはお城の争奪戦が続きましたが、1565年に「徳川家康」が攻めて奪取して、城代に「酒井忠次」を置きました。

 

しかし、「豊臣秀吉」により「家康」が関八州へ移されましたので、それに伴って入城したのが「秀吉」恩顧の大名「池田輝政」でした。「輝政」は、「今橋城」を取り込んだ縄張りと城郭建造物の建築によって近世城郭に変貌させました。

 

昔の絵図(「鉄櫓」の所には五重天守が描かれている、鉄櫓内に掲出分)

 

関ケ原の戦いで東軍に与した「輝政」は、恩賞で「姫路城」へ移り、その後に「松平(竹谷-たけのや)家」が入ります。

その後は、譜代大名のお城となりますが、非常に多くの「大名」が入れ替わりました。「松平(深溝-ふこうず)家」「水野家」「「小笠原家」「久世家」「牧野家」「松平(大河内)家」と1729年頃まで交代劇が続きますが、その後やっと城主が「松平(本庄)家」と固定し安定した統治が行われるようになりました。

 

特に「小笠原家」以降は、奏者番、大坂城代、京都所司代、寺社奉行、若年寄、老中等幕府の要職についたことから、譜代大名の出世城と言われました。

 

 

「吉田城」の「縄張り」は、豊川を背に「本丸」があり、その周囲を東・南・西側に「本丸堀」で囲います。その堀に沿って「二の丸」が囲いその周囲を「二の丸堀」が掘られ、更にそれを包み込む様に「三の丸」が拡がります。「三の丸」の周囲も「三の丸堀」で囲みました。

 

それではまず「本丸」から見て行きます。

 

「本丸」には豊川から出入りできる「本丸北御多門」があり、「二の丸」からは「本丸南御多門」が、元「今村城」跡と言われている「金柑丸」へは「御裏門」で繋がっていました。

 

本丸「北御多門」跡

本丸「南御多門」跡 (奥が本丸跡) 

「御裏門」跡(これを抜けると「金柑丸」跡)

「金柑丸」跡から「御裏門」跡方向

「金柑丸」跡に建つ「豊城神社」、元は「今橋城本丸」があった所、戦国時代の馬出遺跡の名残 

「本丸」跡と「金柑丸」跡の間の「堀」跡

 

「本丸」の四隅に築かれた「櫓」群ですが、北西隅には城内最も大きく天守代用でもあった「鉄櫓(くろがねやぐら)」、北東隅に「入道櫓」、南東隅に「辰巳櫓」、南西隅には「千貫櫓」が立ち、二重の「入道櫓」以外の三つの櫓は格式が高いと言われている三重櫓を据えています。これらの櫓は下見板張りで、意匠もよく似ていたようです。

 

「本丸」内の4つの櫓以外にも、「二の丸」に3基、「三の丸」に1基を設けて、城内には8基もの櫓が建っていました。(太鼓櫓は三の丸口門へ移築されたので、それも含めて「9基の櫓」と、「鉄櫓」内の資料では紹介されていました)

 

「九つの櫓で構成」の資料(「鉄櫓」内に掲出分)

 

現在、「本丸御殿」が建っていた「本丸」跡は、芝生となり公園化しています。「本丸」跡へのメイン入口である「本丸南御多門」は石垣が残り、他の「辰巳櫓」「入道櫓」や「裏門」の石垣も確認できます。

 

特に「本丸南御多門」の西側に建っていた「千貫櫓」の石垣は、修築によって二段構えとなって見応えがあります。またその手前には「本丸堀」の跡が残っています。

 

本丸「南御多門」跡 (渡櫓門)

本丸「南御多門」跡 (渡櫓門)

「辰巳櫓」跡

「御裏門」跡石垣

「入道櫓」跡

「千貫櫓」跡下石垣 (石垣の積み足しが見られる)

「千貫櫓」跡下石垣前の「堀」跡

 

天守代用だった三重の復興「鉄櫓」は望楼型で、本丸跡側からも、豊川側からも見栄えの良い櫓です。

 

内部公開は常時されているかは分かりませんが、当日は公開されていて様々な資料や写真を見ることや撮影もでき、更には豊川と腰曲輪を上から眺めることができて大変満足しました。

 

復興「鉄(くろがね)櫓」(城内最大の櫓で古絵図では天守と記載、1954年に模擬隅櫓として鉄櫓台上に再建) 

復興「鉄(くろがね)櫓」

復興「鉄(くろがね)櫓」(武具所跡から)

吉田大橋からのぞむ復興鉄櫓 

吉田大橋からのぞむ復興鉄櫓 

復興天守内

復興天守内最上階

「天守」最上階から見下ろす「腰曲輪」跡

「天守」最上階からのぞむ「豊川」

 

「本丸」下は、川に沿って細長い「腰曲輪」が造られ、川からの攻撃に備えて「川手櫓」「川手櫓脇多聞櫓」と「北多門櫓」「本丸北御多門」が各々セットになって構えました。

 

更には「二の丸」の川沿いには「雷櫓」が構え、「三の丸」の川沿いには「豊川」から出入りができるように「水門」も置かれ川をうまく活用していたようです。

 

古写真(豊川越しに右から「川手櫓」、「川手櫓脇多門」、その上が「本丸北多聞(武具所?)」、「本丸北御多門」、左脇かすかに「入道櫓」

「本丸」と「腰曲輪」の模型(鉄櫓内に展示)

「川手櫓」台跡

「水門」跡

 

現在、「腰曲輪」から見上げた風景は、各櫓や門の石垣と石段が、身に迫ってくるようで圧巻です。「鉄櫓」の石垣は、「池田輝政」時代のモノのようで城内最古の「野面積み」石垣です。

 

「腰曲輪」跡

「武具所」跡 (「腰曲輪」から見上げる) 

本丸「北御多門」跡 (腰曲輪から見上げる) 

復興「鉄櫓」の切妻出窓で石落とし、櫓台の石垣は池田輝政時代のモノ

 

現在の「吉田城」は、「豊橋公園」の一部になっていますが、「本丸」「二の丸」中心に沢山の遺構をみることができます。「二の丸」「三の丸」跡の西側は「豊城中学校」の敷地となり、「三の丸」跡の西側は豊橋市役所となっています。

 

公園入口は、「三の丸口門」があった場所ですが、両脇には石垣が残っています。ここは、後の「太鼓櫓」跡だそうです。この前の道路は「堀」跡で、東側に沿って横矢を掛けた「土塁」が屈折して続きます。

 

「三の丸口門」跡(後年の「太鼓櫓」跡)

「三の丸土塁」跡

「三の丸土塁」跡(城内側から)

 

公園内は、歩道と芝生が綺麗に区分けされています。「二の丸口門」跡の表示を見て、その東側には「評定櫓」跡の表示を探しましたが、見つけられずこの辺りかなと目星を付け写真を撮りました。

 

「二の丸口門」跡

「評定櫓」跡付近

 

「二の丸口門」表示脇の道を少し左手に歩くと、もっこりした土の盛土があったので「着到櫓」跡であることが直ぐに分りました。そして右手の松が多く植わっているエリアが「二の丸御殿」が並んでいた所です。

 

「着到櫓」跡(城内に集まった兵士を観察・点検する為の櫓) 

「二の丸御殿」跡

 

「二の丸御殿」跡の東側には「土塁」が並びますが、現在「三の丸」跡に建つ「三の丸会館」や「美術博物館」に繋がる道の確保の為に、「土塁」が一部切られています。

 

二の丸跡から三之丸跡(三の丸会館)への門跡か土塁を切った所か?

三の丸跡(奥には美術博物館)

 

大手口には「大手門」が侍町で埋め尽くされた「総構」の最も南側に構えられました。「大手門」の古写真が残っていて凄く立派な「櫓門」であったことが分かります。「二の門」である「高麗門」は幕末には無かったようですが、元々建っていたそうですが、現在は静岡県湖西市にある「本興寺」山門に移築されていて1640年代に移築されたようです。

 

古写真「大手門」(「鉄櫓」内に掲出写真)

「大手門」跡

 

「三の丸」や「総構」をもう少し見ようと思いしたが、前日の雨日から一転して猛暑の中でのお城巡りであり、かなりの体力を消耗したので、次の「岡崎城」訪問に力を温存すべく「豊橋電鉄市内線」で豊橋駅へ向かいました。

 

豊橋電鉄市内線

JR東海「豊橋駅」

 

次のブログでは「岡崎城」をお届けします。

 

「ポチ」をどうぞよろしくお願いいたします。

にほんブログ村 歴史ブログ 城・宮殿へ
にほんブログ村

 

「フォロー」の方もどうかよろしくお願いいたします。

シロスキーのお城紀行 - にほんブログ村

 

もしよろしければこちらにも「ポチ」をお願いいたします。


お城巡りランキング

 

PVアクセスランキング にほんブログ村