前回のブログ「大和郡山城」(奈良県大和郡山市)の後編②をお届けします。併せて、当城の南東にある「稗田環濠集落」にも少々触れたいと思います。

前回ブログ①https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12511540986.htm

 

復興大手東隅櫓

 

「二の丸」跡は、前述のように「県立郡山高校」の敷地ですが、敷地北側には復興「土塀」が連なり、東側から「鉄門」跡、「表門」跡、「裏門」跡、「松蔭門」跡が並びます。特に「鉄(くろがね)門」跡の櫓台の石垣は立派です。この上に建っていた「櫓門」は、1619年に「松平忠明」が入城した時に「伏見城」から移築されたモノだったようです。

 

表門跡、復興土塀(現 郡山高校裏門)

鉄門跡

 

「二の丸」跡の南側に配備されていた「南門」跡は、現在、堀として活用されていた「鷺池」と「鰻堀池」の間になっていますが、その門の遺構は、すぐ近くの「永慶寺山門」(大和郡山市長慶寺町)に移築されています。「棟門」で支柱に横木を渡し、その上に桟瓦葺きの切妻屋根を乗せ、右側には脇戸も備えています。

 

 南門(現 永慶寺山門-大和郡山市長慶寺町)

 

「陣甫郭」と「常盤郭」の東側には堀があり、それに沿って「近鉄橿原線」が沿って走っていますが、その東側には「三の丸」跡が拡がっています。

中堀、復元追手東櫓(奥)、右端には近鉄橿原線が走る

 

「三の丸」跡は、外堀に設けられ外郭の城下に繋がる四つの大門がありましたが、その一つである「柳門」が復興再建されていて、外堀公園出入口モニュメントとなっています。

 

復興柳門(外堀に設けられた四つの大門の一つ)

外堀の一部(南東部)残っている所に外堀公園を整備

 

更に「外郭」は、築城時から商人を集めて商業化を進めるべく区画整備がされていましたが、そこに集められた商家の内、現在でも江戸時代に栄えた箱本館「紺屋」の家屋を見ることができます。

 

城下の箱本館「紺屋」、江戸時代に栄えた紺屋町の町家

 

最後に、当城の南東にある「稗田環濠集落」について少々触れたいと思います。

 

稗田環濠集落図(大和郡山市稗田町)

 

「環濠集落」は、大昔から集落を集団で外敵から防衛する手段として、廻りを濠や逆茂木で囲うなどして出来上がった集落です。

 

特に、室町時代後半の戦国時代に入ると、寺院や有力地主が中心となって農村集落の資産を自ら守る手段として、濠と土塁を築くようになりました。外敵からの防衛ということから、「環濠」も広義のお城と言われています。

 

稗田環濠集落(北西側の堀)

稗田環濠集落(東側の堀)

 

特に、奈良県大和郡山市にある「稗田環濠集落」や「若槻環濠集落」は有名です。

 

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