譜代大名のお城シリーズは、現在中部地方まで辿り着きました。本日は、「挙母(ころも)城」(愛知県豊田市)を紹介します。

 

昨日に続き、かなり前の訪問で、まだカメラはデジタル時代ではなく写真も少ないですが、お許しください。

 

復興隅櫓

 

紹介の前に1つ面白いエピソードを。

「挙母(ころも)城」、「小諸(こもろ)城」、「菰野(こもの)陣屋」の三か所は、それぞれ「愛知県豊田市」、「長野県小諸市」、「三重県三重郡」にあるお城・陣屋ですが、読み方が同じようですので、よく間違いがある三城です。

 

上記とはまた別の三城のお話ですが、「挙母城」には、三つの「挙母城」がありました。

1つ目は、1308年に築かれた砦に近いお城、二つ目は、関ケ原の戦い後に「三宅康貞」が築いた陣屋で桜の木が植えられたので「桜城」と呼ばれお城、三つ目は、本日紹介するお城で「挙母城」です。

 

「二つ目」の「桜城」には、「内藤政苗(まさみつ)」が2万石で入城しますが、何度も水害に会うのでお城改修を幾度も経験します。そこで、近くの場所から西側にある高さ65mの丘陵地にある「七洲城」現在の「挙母城」を築城しました。この築城には、幕府からの特別許可が降り、更には資金面の援助があったようです。

 

「七洲」の謂れは、丘陵地からは7国「三河」「尾張」「美濃」「信濃」「遠江」「伊勢」「近江」以上7洲(国)まで見えたことから「七洲城」と呼ばれたらしいです。

 

「七洲城 城図」に描かれた城内

 

「挙母城」は、「本丸」を中心に、東側に「二の丸」、西側に「三の丸」を置き、その中に櫓が2基、その他「門」が要所に築かれました。

 

二番目の「挙母城=桜城」の「本丸」に建っていた「三重櫓」を三番目の「挙母城」に移築しようとしますが、何度も遭遇する水害によって作業が阻まれたので、移築は断念したようです。

 

「七洲城図」には、櫓や門が細かく描かれていて、現在の「復興櫓」はこの絵図に描かれた「隅櫓」の形や装飾を参考に建てられたとのことです。

復興隅櫓

復興隅櫓

 

現在は、「豊田市美術館」や「城山公園」の敷地なっていて、「復興天守」とその櫓台以外には、見るべき遺構もありません。

 

本丸跡の豊田市美術館

 

下記バナーのクリックをお願いいたします。


お城巡りランキング