本日も、譜代大名のお城シリーズの継続で「横須賀城」(静岡県掛川市)を紹介します。

 

横須賀城の最も特徴的で見事な玉石積み

 

私が訪れたのは随分前ですので、お城からみる写真の遠望が現在とは異なっている可能性もありますが、どうかお許しください。

 

「横須賀城」は、「徳川家」と「武田家」が駿河・遠江国の領有を巡って対立していた時に、「徳川家康」が二国の国境にある「高天神城」の攻略を行う為に、「大須賀康高」に築かせたお城でした。

 

「家康」が「高天神城」を得た後、「大須賀康高」が城主となりますが、「豊臣秀吉」によって「家康」が関八州に移された後は、豊臣系大名が城主となり近世城郭化が進みました。

 

関ケ原の戦い後は、一時「大須賀家」が再入城するものの「館林城」への移封があり、数年間の城主なしの後に1619年に「能見(のみ)松平家」が2万6千石で入城を果たします。

 

しかしその後も、譜代大名のお城の特徴でもある藩主が目まぐるしく変遷し、「井上家」「本多家」が入城し、1682年に「西尾忠成」が入城した後は城主が定着して幕末・維新まで続きます。二代目の「西尾忠尚」は、名君と言われ若年寄から老中にもなり加増されて3万5千石となっています。

 

さて「横須賀城」は、南側が海に面していましたが、更に「外堀」が南側を始め西側や北側にも掘られ、東西二か所に大手門を配備する堅固なお城でした。しかし、宝永の大地震では、南側の外堀部分が地盤隆起して堀が無くなってしまいます。

 

縄張りは、西側から「二の丸」「西の丸」「本丸」「三の丸」が一直線に並ぶ「連郭式」に近く、「本丸」の北側には「北の丸」が置かれました。

 

横須賀城跡の縄張り図

 

「本丸」には、三層四階の「天守」が建っていたようで、現在はその「鯱」が近くの「恩寺高」に二匹仲良く並んでいます。

 

本丸の天守台跡

 

また、「横須賀城」の最大の特徴は、天竜川の小石を集めて石垣が積まれている「玉石積み」で、全国では殆ど見ることができない美しい石垣です。「本丸」入口には「櫓門」が建っていたようで、その跡周辺まで「玉石積み」を見ることができます。

 

本丸正面の玉石積み

本丸跡から南方向をのぞむ

 

「本丸」南側には、「三日月堀」があり現在でも水を湛えています。また、「本丸」西側の「三の丸」との間には、「牛池」があって「掘」の替わりとなっていました。私が訪問した時には、発掘調査が行われて.いる時だったのか、水が抜かれて底部分が見られる状態でした。

 

三日月堀

本丸跡と三の丸跡の間にある牛池(調査中でした)

 

「二の丸御殿」跡は、私が訪問時には「幼稚園」の敷地となっていました。「二の丸御殿」の一部なのか判りませんが、町内の「善福寺」の庫裏の一部に移築されているとのことです。

 

二の丸御殿跡(現在 幼稚園敷地)

移築された御殿書院(善福寺の庫裏の一部が見える)

 

それ以外にも、城郭建造物が、移築されて再利用されたものも含めて、近隣に多く残っています。

まず「御殿書院」が、「掛川城大手門」の櫓門が移築されて有名な「油山寺」に、お寺の「書院」として、1859年頃に横須賀城主「西尾家」から寄進されて移築されています。

 

移築された御殿書院(現在は油山寺書院、県文化財)

 

更には、城下町の東の端には、藩役人が城下の出入りを常時監視する「町番所」がほぼ当時と同じ場所に建ちます。

 

横須賀城下の町番所

 

また東の端にあった「不明門」は、現在「撰要寺山門」として再利用されていて、薬医門の冠木には「本多家」の「立ち葵」の紋が入っています。そして「搦手門」は、現在「本源寺山門」として再利用されていて、欅づくりの立派な門が残っています。

 

不明門(現在 撰要寺山門、薬医門) 

不明門(現在 撰要寺山門、薬医門) 

不明門(現 撰要寺山門、薬医門) (本多立ち葵の紋が入る)

搦手門(現在 本源寺山門、立派な欅づくり) 

搦手門(現在 本源寺山門、立派な欅づくり) 

 

このように、「横須賀城」は、見るべきポイントが多数残っていますので、これらの史跡や遺構を訪ね歩くのも楽しいお城巡りになると思います。

 

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