本日は、「譜代大名」のお城ということで、「田野口陣屋(龍岡城)」を訪ねます。
「田野口陣屋(龍岡城)」」は、三河奥平藩主だった大給松平系統の「松平乗謨(のりかた)」は、信濃国佐久への本領移転を幕府に願い出を行いました。
そして許可が得られて1864年に建設開始し、1867年に完成しました。このお城は、「乗謨(のりかた)」の意向により「西洋稜堡式」のお城を築城しました。規模的には函館にある「五稜郭」の約半分の敷地面積で劣りますが、稜堡式のお城としては最後のお城となりました。
陣屋跡案内と五稜郭の絵図
「五稜郭」となっている所は「内城」で、その周囲には「外城」が取り囲み、「家中屋敷」を始め「米蔵」「藩校尚友館」が置かれていました。
「内城」には、大広間を持つ「御殿」が建てられていて、現存している「御台所(櫓)」もこの一角で使用されていたものですが、廃城後には、「大広間」「書院」「納戸」の他にも、「東通用門」「薬医門」が市内の各所に払い下げられて再利用されています。
御台所
御台所
陣屋敷地は現在「田口小学校」とその運動場
「御台所(櫓)」は、学校の校舎として利用されていましたが、1929年に現在の位置に移設されています。
「内城」の出入口は4箇所あり、北側から「黒門」、北東側には「大手門」、東南側には「通用門」、そして南側には「穴門」と、いずれも五角形の窪んだ箇所に置かれました。しかし、西側は未完であったことから窪んだ所には門を設けておらず、「堀」も西側だけ造らなかったようです。現在は、「穴門」跡がありませんが、「大手門」「黒門」「通用門」の各跡は石垣と土塁が残ります。
大手門橋と大手門跡
大手門跡(内側から)
黒門跡
「外城」北側に設けられた「大手虎口」は、「枡形」が導入され、「落とし積み」の手法が採り入れられています。
石垣は、基本「切込接(きりこみはぎ)」の「布積み」の様式で積まれ、特に石垣の一番上の「天端(てんば)」は、外側に迫り出す「刎出(はねだし)」を用いています。熊本の「人吉城」や北海道函館の「五稜郭」にも導入されています。そして、石垣の上は芝を植えることにより根を張らせて土を抑える効果がある「芝土居」としています。
鋭角になっている稜堡部分、芝土塁、刎出、切込接布積み石垣
鋭角になっている稜堡部分と堀
鋭角の稜堡部分、芝土塁、刎出、切込接布積み石垣
鋭角の稜堡部分、芝土塁、刎出、切込接布積み石垣
前述しましたが、移築した城郭建造物の一つ「東通用門」が、同市内の「成田山薬師寺」(佐久市中込)の山門として再利用されています。
佐久市の成田山薬師寺の参道(向こう山門が龍岡城の東通用門)
龍岡城東通用門(高麗門)現成田山薬師寺山門
東通用門格子板門扉
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