譜代大名のお城シリーズ、本日は、春に「コヒガンザクラ」で埋め尽くされ全国的にも有名な「高遠城」(長野県伊那市)にまいります。

 

高遠城のモニュメント的な太鼓櫓

 

築城は、諏訪家一族の「高遠家」で戦国時代中期までの約200年間統治していましたが、「武田信玄」による「諏訪家」攻略によって1545年に落城します。

 

その後「信玄」は、伊那や木曽を攻める拠点として「山本勘助」等に拡張修築を命じ、武田風のお城造りが行われます。「武田家」の持ち城となり、城主には、武田家配下「秋山信友」「仁科盛信」等と、「武田勝頼」も城主となります。

 

そして織田軍や徳川軍の攻略によって「徳川家」のお城となり、「家康」配下の「保科(ほしな)正直」が城主となりました。

 

江戸時代に入り、「保科正光」が初代藩主となり、二代将軍「徳川秀忠」の隠し子「保科正之(後の松平正之)」を嗣子として迎え大切に育てられていたことを知った三代将軍「徳川家光」は、「正光」を優遇し、「保科正之」は加増させて「山形城」へ移封させています。

 

建福寺山門(保科家の菩提寺)

保科正光(左)、保科正直(右)の墓(建福寺内)

 

その後、関ケ原の戦いで「伏見城」を最後まで死守した「鳥居元忠」の孫「忠春」が「高遠城」に入りますが、「鳥居家」は諸事件によって改易されます。

一時天領となりますが、1691年に「内藤清枚(きよかず)」が藩主となって以来、幕末・維新までは「内藤家」のお城となります。

 

内藤家菩提寺の墓(満光寺)

 

「内藤家」は幕府内の業務に多く携わりましたが、特に1714年には、江戸城大奥御年寄「江島」による歌舞伎役者「生島新五郎」への密通事件であった「江島生島事件」に関わり、流罪にされた「江島」の身柄を預かりました。現在は、お城近くに「江島囲み屋敷」が復元されています。

復原の「絵島囲み屋敷」

復原の「絵島囲み屋敷」

 

さて「高遠城」ですが、二つの川に挟まれた天然の要害である崖上に築かれています。

 

城図(郭図)

 

「本丸」は土塀に囲われ、真ん中には「御殿」が建ち、絵図では「巽櫓」「角(すみ)櫓」の2基と「櫓門」を含む「城門」が4基あったようです。その周囲は一部「水堀」でしたが殆どは「空堀」で囲われた「内堀」が備わっていました。

 

現在の「本丸」跡には、「桜雲橋(おううんきょう)」で「内堀」を渡り、城下の「問屋役所」から「本丸門」跡に移築された「問屋門」が建ちます。

春になりますと、「本丸」跡から周囲までもピンク色が濃い「コヒガンザクラ」に覆われて、多くの観光客が訪れるスポットとなります。

 

桜雲橋(おううんきょう)と問屋門(本丸門跡に移築)

本丸門跡に移築した問屋門(城下の問屋役所の門)

本丸跡、コヒガンザクラの木々が一杯

本丸土塁跡

 

また「太鼓櫓」が「南隅櫓」跡に当城のシンボルとして建っていますが、廃城後別の場所へ移築されて時を告げていたようです。その後再度城内に移築されたようで、現在のモノは1913年に再築されましたが、中には太鼓はありません。

 

太鼓櫓(現在の物は1913年築で太鼓はない)

 

「二の丸」は、「本丸」の東側に築かれ、南東側から南側にかけては「南曲輪」「笹曲輪」「法幢院(ほうどういん)曲輪」や、「山本勘助」が設計したとの言い伝えがある「勘助曲輪」が築かれています。また、法幢院(ほうどういん)曲輪」は、土橋で繋がりますが周囲は空堀で囲われていて、まるで「馬出」のような機能を持っていたようです。「二の丸」周囲には「土塁」と「外堀」が築かれ「三の丸」と分断させています。

 

二の丸跡と法幢院曲輪跡の間の空堀

南曲輪跡(保科正之と静の方が居住、本丸とは堀内道で繋がっていた)

笹曲輪跡(太鼓楼の真下)

勘助曲輪跡(現在グランド駐車場、本丸から)

法幢院曲輪跡(馬場があった、その昔は法幢寺があった)内の歌碑

二の丸跡(右)と三の丸跡(左)の間のU字型空堀

三の丸跡から二の丸跡に入る右側の空堀

二の丸跡と法幢院曲輪跡の間の空堀

 

「二の丸」跡へは、「二の丸」最大の出入口だった「二の丸門」跡から入場します。入ってすぐ左手には、「高遠閣」という元々集会所や観光客の休憩所として昭和11年に建てられた木造二階建の建造物があります。入母屋鉄板葺(当初は杮葺の大型建造物)で「登録有形文化財」に指定されています。「勘助曲輪」は駐車場として利用されています。

 

二の丸門跡(木橋があり棟門、桝形、櫓門と続いた)

二の丸跡

二の丸跡に建つ「高遠閣」(登録有形文化財)

二の丸土塁跡

 

「三の丸」は、北側から西側にかけて大きな面積をとっていますが、こちらに家老屋敷を含む武家屋敷、藩校「進徳館」、「土蔵」などが置かれていたようです。

 

「三の丸」南側には、石垣を持つ「大手門」が、北側には「馬出」を伴った「搦手門」が備わり、武田流のお城造りの一端を見ることができます。

 

現在の「三の丸」跡への入口は、南側から入る場合は、かなり長いつづら折れの坂道を登っていきますが、上りき立った所には「大手門」跡の石垣を見ることができます。そこから少し北側に歩いた所には、元「高遠高校」であった敷地の正面に「大手門」が移築されていますおり、現在は門柱を切断して低くなっているそうです。

 

大手門へ登る大手坂

大手門跡付近から見下ろす「高遠城下」

大手門跡石垣(枡形、正保年間に西側に変わった)

大手門跡から三の丸石垣

大手門(櫓門だったが薬医門に改築、高遠高校の正門として使用されていた)

大手門(元高遠高校校門として使用)

 

更に緩い坂道を上った左側は、藩校「進徳館」があります。「正門」と「玄関」、「東西2棟」が現存している他にも、復原されている建物含めて見学することができます。

 

進徳館の校門と寄宿寮式台(国史跡、藩主内藤頼直が1860年に創設)

進徳館寄宿寮の式台と脇玄関

進徳館東西2棟は現存(全部で8棟あった)

進徳館(手前から第一教場、第二教場、生徒控所)

進徳館の教場と学監詰所

 

「三の丸」の「搦手門」跡は現在殆ど遺構らしきものはありませんが、その「搦手門」は、長野県岡谷市湊にある「久保寺(きゅうほうじ)山門」として移築されています。

 

馬場先門跡(現在 もう一方の高遠城出入口)

搦手門跡付近(搦手門は久保寺山門に移築)

高遠城搦手門(久保寺山門に移築、長野県岡谷市湊)

 

また、「信州高遠美術館」の脇には、三階建ての城郭建築が建ちますが、少し滑稽なお城風の建物です。

 

模擬城郭(信州高遠美術館内)

 

公共交通機関では、なかなか行きづらいお城ではありますので、コヒガンザクラが満開の時に桜見の観光バスで行くのも良いですが、シーズン以外に訪問して、「高遠城」の武田流の曲輪配置と空堀、及び遺構として残る大手門や藩校等をゆっくりと観察するのもいいものです。

 

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