昨日の「彦根城」(滋賀県彦根市)天守の続きで、「本丸」をもう少し見ていきますと、「太鼓丸」から「本丸」への入口には「太鼓門櫓」(重文)が置かれています。

 

太鼓門櫓と続櫓(正面より)

太鼓門櫓(重文-どかの城の城門を移築)

 

「太鼓門櫓」は、特殊な形をした「門」であり「櫓」でもあります。

 

というのも、正面は「門」の右側に「続櫓」が併設され、そこから攻撃ができるようになっています。「本丸」内から見ると、壁面は塗り込めの壁ではなく、中に置かれた「太鼓」の音が城外に聞こえるようにする為なのか開放となっています。

 

また、半間幅の「廊下」に「高欄」が付くという珍しい構造になった建造物です。この建造物は、他のお城から持ち込まれて移築されたものです。

 

太鼓門櫓と続櫓

太鼓門櫓の高欄と半間通りの廊下

 

「本丸」には、「天守」と「太鼓門櫓」以外に、南東隅には「月見櫓」が建ち、「太鼓門櫓」の両脇には「備前櫓」と「東輪多門」の平屋建造物が建っていました。

 

「本丸」の北側の曲輪には「西の丸」が配備されました。その北の端には、現存重文の「西の丸三階櫓」が建ちます。こちらも他のお城からの移築された建造物であり、「小谷城」からの移築だと伝わりますが、その真偽は疑わしいそうです。ただ、どこかのお城から移築されたのは確からしいです。

 

「西の丸」跡

西の丸三重櫓(重文-伝小谷城天守を移築)

西の丸三重櫓の続櫓(重文-右側)

西の丸三重櫓続多聞櫓内天井部

西の丸三重櫓の続多聞櫓内部

西の丸三重櫓の続多聞櫓の壁面(左部分)

西の丸三重櫓の二階への階段(2本ある)

 

「西の丸」には、他にも「北輪御櫓」「南輪東一御櫓」「二之御櫓」「西御門櫓」等すべてが「平櫓」である多くの櫓が並んでいました。

 

「西の丸」から更に北側には「北曲輪(人質郭)」が置かれていて、「西の丸」と「北曲輪」の間には深い「堀切」が仕掛けられ、そこから「西の丸三重櫓」は見上げるような位置となっています。

 

「北曲輪(人質郭)」跡

西の丸三重櫓(人質郭下から)

西の丸から人質郭への門跡

 

「太鼓門櫓」の前の曲輪は「太鼓丸」と呼び、その南側の「天秤櫓」及び「堀切」を跨ぐ「廊下橋」が「鐘の丸」から攻めてこようとする敵軍を阻止できるような仕掛けになっています。

 

天秤櫓(重文)と廊下橋-堀切の上

 

この「天秤櫓」ですが、この櫓も「長浜城」大手門からの移築櫓だと伝わっていますが真偽は不明です。ただどこかのお城からの移築であることは確かということです。当櫓は、現存で重文指定されています。

 

天秤櫓(重文-右部分)

天秤櫓(重文-伝長浜城の大手門を移築)

天秤櫓の西部分

 

「天秤櫓」は、両端に二重櫓が備えられ、正面の右側の櫓は「桁面」を見せ、左側の櫓は「妻面」を見せています。また、それを支える石垣ですが、向かって右側は「牛蒡積み(野面積み)」、左側は1850年代に積みなおしたので最新工法の「落とし積み」が採用されています。

 

天秤櫓の右側石垣(牛蒡積-築城当初)

天秤櫓の左側石垣(落し積み-1854年の修理)

 

「鐘の丸」の周囲には、北東から「御鳥毛櫓」「西輪多門」、二重の「南角御櫓」「南輪多門」二重の「東角御櫓」「北輪多門」が取り巻いていました。「鐘の丸」の由来となる「鐘楼」は、現在「本丸南腰郭」へ移築されています。

 

鐘の丸跡

鐘の丸内の建物の跡

鐘楼(嘗ては鐘の丸にあったが、井伊直滋時代に本丸南腰郭に移動)

 

以上の曲輪が、「金亀(こんき)山」の上に北側から南側にかけて「連郭式」で並んでいました。

 

次の「ブログ」では、「金亀山」の麓周囲を見ていきたいと思います。

 

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