本日のブログは、「徳川四天王」と呼ばれた「徳川家康」の有力家臣の一人、「井伊直政」を藩祖とする「井伊家」のお城である「彦根城」(滋賀県彦根市)を訪れたいと思います。

 

天守(付櫓と多聞櫓)

 

「井伊直政」が「家康」の家臣となった経緯ですが、「井伊家」は元々は「三河譜代」から仕えていた「徳川家」の家臣ではなくて、遠江国井伊谷(いいのや)に本拠を置く国人であり今川家の配下にありましたが、「今川義元」が桶狭間の戦いで討たれた後に「今川家」の力が急速に低下する中で、「直政」の父親である「直親」が「今川家」に殺害される事件があったので、「直政」は三河国に流れていき、15歳の時に「家康」に仕えることとなります。

 

この辺のところは、一昨年のNHK大河ドラマ「女城主 直虎」で詳しく放映されていましたねー

 

井伊直政像(JR彦根駅前)

 

「直政」が多くの手柄を立てて「井伊家」旧領の「井伊谷」を与えられるとともに、滅びた「武田家」の領地と臣下を部下として与えられ、「武田家」の「赤備え」を継続して採用して、「井伊家」集団は勇猛な軍団となりました。

 

「家康」が関東8州を与えられた時に、「直政」には上野国「箕輪城」12万石を与え、北方の「上杉景勝」等の勢力の抑えとなりました。

 

箕輪城 復元郭馬出西虎口門 

箕輪城 郭馬出と大堀切

箕輪城 郭馬出 (二の丸から)

 

関ケ原の戦い時は、抜け駆け的な手柄もあり、「石田三成」の居城であった「佐和山城」を与えられましたが、その時に受けた傷によって亡くなってしまいます。

 

「井伊家」二代目の「直継」は、1603年に本拠地を「佐和山城」から「彦根城」に移し、当時は対「豊臣」方に対抗すべく築城にスピード感が必要であったことから天下普請で築城されます。従って、城内の城郭建造物は、「天守」を始め、「天秤櫓」「太鼓門」「三の丸三重櫓」等は、他のお城から解体移築されて持ち込まれたと言われています。

 

その後は、18万石で徳川幕府の屋台骨を支えるべく幕末までには五人の大老を出し、その中でも特に有名なのは「井伊直弼」であります。

 

「彦根城」は、前述のように「豊臣家」への備えをするために、「金亀(こんき)山」に築かれましたので、お城の周囲は「内堀」「中堀」「外堀」に加えて、西側には人工河川である「芹川」を「総構堀」として位置づけ、東側には琵琶湖の「松原内湖」に接する大城郭となりました。

 

「本丸」には、「大津城」の四重「天守」を三重に改修して持ち込まれた国宝「天守」が建ちます。「天守」は三層三階地下一階で、大入母屋の上に望楼を乗せたもので、梁行(東西面)に対して桁行(南北面)が2倍近くあるので、外観が各々の報告から見た時には全く違った見え方をします。

 

天守梁側から

天守桁側 付櫓と続櫓(玄宮園より)

 

天守の形式は、「付櫓」が付く「複合型天守」で、「付櫓」には更に「続櫓」が繋がっていて、そこから入城するようになっていますが、もう一つ「天守」に直接入る入口を持ち、こちらは天守の石垣内に設けられた地下室から入るルートとなります。

 

天守、付櫓、続櫓(多聞櫓)

天守入口(天守北側にある出入口で、一階に通じる)

 

「天守」の壁面は、「白漆喰塗籠」と「下見板張り」併用で、城内側からは「鉄砲狭間」がたくさん並んでいますが、外壁にはそれが分らないように造られています。いざという時には、城内の鉄砲狭間の板を打ち破って銃眼を出せるように細工されています。

 

天守内の鉄砲狭間(外からは形が見えない工夫)

天守一階の部屋内

天守内の二層から三層への階段(角度67度)

天守一階の武者溜り

天守三層身舎(モヤ)部-中央の間-梁と桁材

 

更に、外壁には様々な装飾が施され、華麗な天守を演出します。まず「破風」ですが、「軒唐破風」「入母屋破風」「庇付切妻破風」「切妻破風」等が全部で18か所も配置されています。

 

軒唐破風、廻縁と高欄、華頭窓、千鳥破風

 

最上階には、格式の高い「廻縁」と「高欄」を採用し、また窓も格式を重視した「華頭窓」を施して二重目と三重目に全部で18か所、一方一重目の窓は「突上戸」を採用しています。

 

天守(国宝-唐破風・千鳥破風が多数ついている)

 

次のブログでは、その他の城郭建造物を目指します。

 

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