「春のお城巡り一人旅」2日目は、広島市内のホテルを出た時点では少し雨が降っていましたが、広島駅から「おとなびWEB切符」を使用して「ひかり441」の乗車時間14分間の間には雨は上がり、新岩国駅へ到着しました。そして新岩国駅からは、岩国行「岩国バス」に乗車13分で「錦帯橋」に着きました。
雨は上がったものの、城山方向は霧がかかっていて、「岩国城」は見えず。「錦帯橋」の写真を撮っているうちに、霧は徐々に晴れていき「錦帯橋」と「岩国城」とのコラボ写真が撮影できましたが、霧に霞んだ「岩国城」も”天空の城”風で、なかなか良いものでした。
霧に霞む城山と錦帯橋
錦帯橋から見上げる復興天守
戦国時代の末期には、中国地方の殆どを領有した「毛利元就」ですが、関ケ原の戦い後には防長2ケ国に減封となったことから、出雲の「月山富田城」の城主であった「元就」の孫にあたる「吉川広家」は、岩国に転封させられました。
「吉川広家」は岩国に城を築き、山頂の要害と山麓の「御土居(居館)」で構成しましたが、1615年の「一国一城の令」によって山頂のお城はわずか7年で破却されてしまい、山麓の「居館」だけを残してそこで政務を執りました。
山麓の錦雲閣 吉香神社の絵馬堂 (陣屋櫓跡に建てられた)
山麓の「居館」は、江戸時代を通じて政務の中心地として機能させましたので、「居館」を中心に陣屋町を発展しました。麓の「居館」跡や多くの武家屋敷の遺構については次回ブログに廻します。
さて、ロープウエイに乗り3分で山頂に登りますと、下界の眺めは最高です。ロープウエイ駅から見下ろしたときにはハッキリと「錦帯橋」や「山麓居館」跡周辺を眺めることができましたが、ロープウエイ駅から「本丸」方向に向かって歩く杉林の中は、まだ霧の中から光が差し込む筋があちらこちらで見かけられました。
ロープウエイから見下ろす吉香公園と錦帯橋
私は、「大釣井」と呼ばれるお城の水場地帯となる井戸の脇の道を進みますと、旧「天守台」が右手に見えます。
城郭案内図
大釣井
旧「天守台」は、発掘調査で往時の姿がだいぶ残っていたので、積み直しを行い復元したそうで、積み方は「野面積み」です。
旧天守台(復元保存)
ここから坂道で「本丸」にある「天守」に辿り着きますが、私はも少し先に進んで「北の丸」跡に向かいます。
北の丸跡
「本丸」跡と「北の丸」跡の間には、日本最大級と言われる「空堀」が霧の中に差し込む光の中から現れます。「空堀」は箱型をした「箱堀」になっています。「北の丸」跡には、二つの矢倉が建っていたとのことですが、遺構はありませんでした。
空堀跡(霧の中に光が差し込む)
空堀跡(日本最大級の箱堀)
「北の丸」跡を取り巻く北の丸周辺散歩道を辿ると、「北の丸」跡の石垣を見ることができ、更にあちらこちらに破却した石垣の石が無造作に散らかっています。石垣は、「本丸」跡から「大手門」跡、「二の丸」跡まで続いています。
北の丸の東南に残る石垣
北の丸の東南に残る石垣と石群
いよいよ「本丸」に入りますが、この端には矢倉台が残ります。
本丸内の東矢倉台
この「復興天守」は、立面の「古図面」を参考にして復興した天守で、四層六階で、三層目の入母屋屋根に望楼部分を乗せた構造になっています。
復興天守の望楼部分(北東側)
特徴的な形の天守は、最上階(六階)が廻縁を内(室内)側に取り込むことによって五階よりはみ出て、更に五階の屋根は省かれています。また、三層目も内側は三階と四階に分かれていて、四階が廻縁を内側に取り込んだ形になっていて三階の屋根が省略されているので、四階がはみ出た形となっています。このような形の天守を「南蛮造り<唐造り>」と呼ばれていて、「小倉城」や「高松城」の天守でも例があります。
復興天守 (桃山風南蛮造り<唐造り>、四層六階)
復興天守 (東面)
復興天守の石落とし、狭間、突上げ窓
復興天守内 (最上階)
この天守は、当時は前述の旧「天守台」の上に建っていたものですが、昭和37年に再建された時に、「錦帯橋」とのコラボができるように南側(麓側)50m手前に置かれました。
錦帯橋から見上げる復興天守
「二の丸」跡は、当時の石が残されていますが、そこからの天守の見え方もいいです。
二の丸跡 石が残る
二の丸跡から見上げた天守
二の丸、出丸下の石垣
「大手門」跡には模擬の冠木門に似た「塀重門」風の門が建ち、その脇には「出丸」と呼ばれる出張った土地があります。この下にも石垣が「本丸」跡から続いています。
大手門跡
出丸跡
ロープウエイ乗り場まで戻って、麓の「居館」跡などに向かいます。
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