前回のブログ「広島城」(広島県広島市)の続きです。
外観復元コンクリート天守 南西方向より (3~5階望楼部分)
前回は、「本丸上段」を見てきましたが、本日は「本丸下段」からです。「二の丸」跡から「中の御門」跡を通り抜けた所から「本丸下段」で、左手には広場が拡がっています。
その西奥は「広島護国神社」の境内に使用されています。元々は、米蔵と馬場があった場所です。
馬場跡に建つ「広島護国神社」
「中の御門」から真っすぐ「本丸上段」の土塁沿いに進んだところは「東帯曲輪」となりますが、右手には「裏御門(東門)」の櫓台の石垣が残ります。土橋を渡るとそこは「竹の丸」跡になり高等裁判所、法務総合庁舎、広島合同庁舎などが建ち並んでいます。
本丸上段の土塁
裏御門(東門)跡石垣
裏御門(東門)跡石垣、奥が竹の丸跡
裏御門(東門)脇の櫓台
裏御門(東門)前の土橋
「内堀」沿いに道がありますので、それを時計回りと反対方向に廻りながら、「天守」の変わる姿を写真に納めながら散策をしました。
「竹の丸」跡から、広島逓信病院、白島小学校、基町高校の敷地になっている「北の丸」跡へ進みます。「北の丸」跡からの天守の眺めは、二層の「入母屋」屋根の特徴が良くわかり、「比翼千鳥破風」と「千鳥破風」もすっきりとしています。
天守東面
天守古写真(東側から、手前に東小天守が連結していた)
北東方向より(竹の丸跡~北の丸跡から)
「北の丸」跡から、基町小学校や中央公園になっている「三の丸」跡に歩を進めます。二層目の「入母屋」屋根の形が良くわかり、四層目の「千鳥破風」や最上階の「華頭窓」が四つ見える美しい姿です。
北側(北の丸跡)から
北西方向より(北の丸跡~三の丸跡)
外観復元コンクリート造りの天守最上階の壁に付く華頭窓
「内堀」沿いに南下していきますと、「天守台」の石垣と「本丸上段」「本丸下段」の野面積みの石垣が重なり合い、三重石垣の段に見える贅沢な眺めです。
本丸西面石垣と南小天守台石垣
「三の丸」跡から見える「天守」は、「入母屋」屋根と大きな「千鳥破風」の一つずつが天守の壁面に張り付き非常に豪華な見え方がします。
西側から(三の丸跡から)
更に南下して「三の丸」跡の南西方向から見える「天守」は、「南小天守」に繋がっていた痕跡のような形になっていて、他の方角からの見え方とは違って非常に変化のある顔を見せています。私は、この方角から見える「天守」が一番好きです。
南西方向より(三の丸跡~内大手曲輪跡から)
外観復元天守 南西方向より (走り櫓との接続部分)
南西隅の櫓台石垣
「内堀」沿いを東に歩むと、最初にスタートした「二の丸」跡が左手に見えて「内大手曲輪」跡になりますが、更に東へ進んだ右手(南側)には「八丁堀」や「鉄砲町」などの城下町らしい町名が残るエリアとなっています。
「八丁堀」から白島通りを北上した所と、「本丸裏御門」から東へ歩んだ交差地点に「縮景園(しゅっけいえん)」があります。
縮景園 (大名庭園)の正面
縮景園 案内図
「縮景園」は、1620年に初代藩主「浅野長晟(ながあきら)」が、大名庭園の先駆けとして茶人「上田宗箇」に作庭させた「泉水屋敷」の庭で、宝暦の大火で焼失した後に、「浅野重晟」によって建物の復旧と庭園の拡張が行われて、本格的な大名庭園となりました。
縮景園 (清風館(数寄屋風書院造り、清風之間、老候之間、次之間、玄関之間、茶室、水屋之間)
縮景園 (清風館と跨虹橋、ここうきょう)
縮景園 (跨虹橋の上のハト)
縮景園
縮景園 (楊貴妃型石燈籠)
縮景園 (明月亭、数寄屋造りの茶室、窓枠は牛車の車輪をデザイン)
しかしながら、お城の建物と同様にこの庭園も、原子爆弾の投下で壊滅的な被害を受けましたが、戦後復旧を果たしました。
原爆で倒壊した天守(天守内に掲載の写真より)
縮景園 (原爆投下後、園内に掲出されている写真より)
「縮景園」から「京橋川沿い」を北上した所にある「常葉橋」を渡り、北東方向には「広島東照宮」があります。これは四代藩主「浅野光晟」の生母が「徳川家康」の第三女「振姫」であったことから、「家康」を敬い祀る為に、広島城の鬼門にあたる北東にある二葉山の山麓に造営されました。
広島東照宮 (四代藩主浅野光晟による)
広島東照宮 唐門
広島東照宮 拝殿
広島東照宮 本殿
しかしこちらも、原爆投下によって焼失してしまい、昭和40年に再建されたものです。
原爆投下がもし無かったら、多数の城郭建造物やその関連施設、史跡が残されていただろうと思うと、非常に残念です。
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