昨日に続き「吉田郡山城」(広島県安芸高田市)の後編です。
山麓から登城道を上り、昨日は6つの尾根に築かれた「曲輪(壇)」まで辿り着きました。本日は、そこから「三之丸」「二之丸」を通り抜けて最高峰の「本丸」へ至ります。
本丸櫓台跡(東北部にある)
「三之丸」は、城内最大の曲輪となっていて、土塁や削り出しで四段に分かれています。「二之丸」からは35mも下段にあり、西の段と南の段とは石塁で隔てられ、北の段とは石垣で画しています。西の段からは、「二之丸」「御蔵屋敷」に繋がる通路が延びます。「三之丸」の東南方向への延長には「厩の壇」が続きます。
三之丸跡(城内最大規模の曲輪、二之丸から35m下段)
「三之丸」下通路は、「三之丸」に入る大手道にあたり、かなりの量の石が散乱しています。
三之丸跡に散乱する石垣の石
三之丸跡に散乱する石垣の石
続いて「二之丸」ですが、周囲を高さ50㎝で幅1mの石塁や石垣で区画されています。
二之丸跡(本丸の南側)
本丸跡から二之丸跡を見下ろす
そしていよいよ「本丸」ですが、郡山の山頂に位置し、北東に一段高い「櫓台」があって標高390mとなっています。「本丸」を中心に放射状に延びる6本の尾根と更にそれから伸びる支尾根の計12本の尾根が有効に機能した山城となっています。
二之丸から本丸方向
本丸跡
本丸櫓台跡(東北部にある)
「本丸」を後にして、「勢溜(せだまり)の壇」脇の山道を下りていくと、「旧本城」との間に三本の「堀切」で隔てた曲輪が「尾崎丸」です。この曲輪は「毛利隆元」の居所があった場所と考えられています。
勢溜(せだまり)の壇跡
尾崎丸跡
下山途中の道は二本に分かれていて「旧本城」に向かいました。しかしながら、幾つかの「堀切」を経て登ったり下ったりする細い山道を進むも、いよいよ前に進むことが憚られるような道なき道となり、少し見上げた場所には「本城」の標識があるけれども、そこへ辿り着くすべがなく行きつくことを断念してしまいました。ここで、無駄な時間を費やしてしまいました。
旧本城本丸跡
旧本城本丸跡下の石
元の道に戻り、更にだいぶ山麓まで下りた所には、「郡山公園」があります。こちらは、毛利家時代の「興禅寺」跡で、江戸時代には、「浅野長厚」3万石の居館「吉田陣屋」に敷設された「文久亭」を拡大修復したものです。
興禅寺跡で現在郡山公園
更に、その東側には「県立吉田高校」の敷地になっていますが、そこは「吉田陣屋」(広島県安芸高田市吉田町)の居館跡であります。
吉田高校敷地で吉田陣屋跡
敷地北側には「浅野御本館跡」碑が立っているとの情報を得ていましたが、どうしても探し出すことができませんでした。高校前の道路やグランド南側に流れる溝は、「堀」跡ではないかと思い写真には納めました。
吉田陣屋跡(現吉田高校)
吉田陣屋跡(現吉田高校)前の堀跡
吉田陣屋跡(現吉田高校)と堀跡?の溝
安芸高田市の中心地から広島市内に向かう場所にある「法圓寺」(吉田町竹原)には、「吉田陣屋」の「馬具櫓」が移築されていて茶室「三菱窟」という名前で現存しているとの情報を得ていました。
どうしてもそこには訪問したかったものの、広島市内へ向かう1時間に1本のバスに乗車しないとその後の行程に支障をきたすことから、そのバスに間に合わすべく、「法圓寺」まで約3㎞の道程を必死になって歩きました。
しかしながら、結局そこに着くまでにそのバスが近くのバス停まで来てしまったことから見ることが叶いませんでした。非常に残念でなりませんでした!
このままバスに乗車して「広島市街地」に向かいますので、次のブログでは「広島城」を訪問していきます。
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