「三河譜代から藩祖となった大名シリーズ」で本日スポットを当てるのは、「徳川家康」の関東入りした時に「小田原城」(神奈川県小田原市)を与えられた「大久保忠世」です。

 

復興天守、付櫓、渡櫓

 

「大久保忠世」から領地を引き継いだのが「大久保忠隣(ただちか)」でしたが、「本多正信」「正純」親子との政争に敗れて改易されます。

 

その後、「忠隣」の子「忠常」は処罰を受けず大名として残ったことと、過去「大久保家」の「家康」に対する貢献度が高かった実績があったことから、「忠常」の息子で「忠隣」の孫である「忠朝(ただとも)」の系統が10万3千石で「小田原城」に返り咲き幕末まで続きます。

 

「大久保家」が入城する前の「小田原城」といえば、知る人ぞ知る「北条氏五代」の拠点であり、「豊臣秀吉」の全国統一事業に最後の最後まで抵抗をこの「小田原城」で行いましたが、最終的には「小田原城」を見下ろせる「石垣山」に建てられた「石垣山城」の迫力に押されて「秀吉」に屈して、当時の城主「北条氏政」は開城した上で切腹することになります。

 

石垣山中腹から臨む小田原城

 

戦国時代の「小田原城」は、「北条氏五代」の始祖「北条早雲」が、鎌倉公方「足利持氏」の麾下の「大森家」から奪い城主となります。その後、「上杉謙信」や「武田信玄」が「小田原城」を攻めますが、難攻不落でいずれも撤退します。

 

そのうちに、「北条氏康」が三の丸を築き拡張し、「氏政」は総延長約9㎞もの「総構」を築いて万全の態勢の城郭とします。

 

「小田原城」は、前述のように「(後)北条氏」が築いた「総構」を縄張りとして残しつつ、近世城郭として改修されました。

 

「本丸」を丘陵地の先端に設け、「天守閣」と「本丸御殿」が置かれ、枡形のある「常盤木門」からは「二の丸」に、「鉄門」からは「御用米曲輪」に繋がっていました。「常盤木門」は、外観復元されています。

 

本丸絵図(天守内に掲出)

3重4階の復興天守と渡櫓

復興常盤木門渡櫓門

復興常盤木門枡形内(多門櫓)

復興常盤木門の渡櫓門

 

「天守閣」は、廃城令が出された1873年よりも前の1870年に解体されました。現在「本丸」に建っている天守閣は、三層四階で付櫓と渡櫓が付随する複合型で、1960年にコンクリート造りで復興されたものです。解体途中の古写真が残るものの全体の形が判る古写真がないので、江戸時代の設計図や模型を参考にして建てられたものです。

 

復興天守入口

 

「本丸」の東側には「二の丸」が位置しその間には堀が掘られ、「二の丸」には藩主の屋形などが置かれました。

 

本丸東堀跡

二の丸御殿絵図(天守内に掲出)

 

「二の丸」の表門として枡形を持つ「銅(あかがね)門」を構え、搦手には「二の丸裏門」が置かれました。「二の丸」の南西には、「南曲輪(鷹部屋曲輪」や「雪曲輪(小峰曲輪)」など小規模な曲輪が取り囲んでいました。

 

復元銅門の仕切門

銅門の枡形と土塀

銅門渡櫓門(二の丸側から)

銅門の渡櫓門(枡形内から)

南曲輪前堀から銅門をのぞむ

南曲輪前の堀(蓮で覆われている)

土塁の向こうは御茶壷曲輪、銅門が見える

 

「銅門」からは、馬屋が置かれていた「馬屋曲輪」の「馬屋門」を通って「三の丸」に通じ、「大手口門」に至る城道となっていました。

 

模擬隅櫓と馬屋曲輪

模擬隅櫓と銅門土塀

めがね門(二の丸から三の丸大手門に続く)

 

また、「馬屋曲輪」から西側には、馬出的な「御茶壷曲輪」を置き、そこは将軍に献上する茶壷が留め置かれた場所でもあり、そこを通って「三の丸」にも通じていました。

 

馬屋曲輪から御茶壷曲輪の石垣

模擬隅櫓(二の丸側より)

御茶壷橋

 

 

「三の丸」は、「二の丸」と前述した各曲輪を北側、東側そして南側を大きく取り囲む形になっていて、北側から「幸田(こうだ)口門」、東側に「三の丸大手口門」、南側に「箱根口門」を構えていました。

 

三の丸小学校(城郭風建築)

箱根口門跡石垣

復興八棟造り(現ういろう・外郎博物館)

 

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