「岡崎城」(愛知県岡崎市)、そこは「徳川家康」の生誕地でありましたが、その後「今川家」の人質となってこの地を離れ、「今川義元」が桶狭間の戦いで敗死したことで、「今川家」から逃れて戻ったお城であります。
しかし、「豊臣秀吉」の小田原遠征による全国統一が行われ、「家康」は東海地方から関八州へ押し出す形で領地を替えられましたが、関ケ原の戦い後は再び手に入れたお城です。
再度手に入れた「岡崎城」には、三河以来の「家康」の臣下であった「本多康重」が5万石で入城して4代続きますが、その後は「水野家」「松平(松井)家」、そして1769年に今度は「本多(忠勝系)家」が入城して幕末まで続きます。「家康」の生誕地とのことで、「家康」と所縁のある譜代大名が代々居城しました。
今回以下で「岡崎城」を紹介しますが、私が訪問したのは随分過去のことで、写真もアナログで美しさにかけ、枚数も少なく全体を紹介するにしては、不充分ではあると思います。
復興天守閣
しかし、「三河譜代からの藩祖が、幕末まで続いている大名のお城シリーズ」の中で、「岡崎城」を触れないわけにはいかないので、不充分な写真ながら今回は記載をさせていただきたいと思います。
今年の夏頃には、「岡崎城」へ再度訪れて、今回のブログをリフレッシュしたいと考えています。
「岡崎城」は、「本丸」を中心に複雑な曲輪と内堀が取り巻いています。度重なる増築によって、新設された曲輪がいっぱいに集まっています。
「曲輪」に付けられた名前もユニークで、「本丸」から近い所から「風呂谷曲輪」「隠居曲輪」「持仏堂曲輪」「坂谷曲輪」が取り巻き、更に西側には「丸馬出」がある「白山曲輪」、それに北側へ続く「稗田曲輪」があります。
「二の丸」「三の丸」の周囲には、「菅生(すごう)曲輪」「備前曲輪」「浄瑠璃曲輪」など、面白い或いは変わったネーミングの曲輪です。一説には、これらは「家康」時代の中世城郭の面影が残っているとのことです。
城内の建造物は、三重三階地下一階の「天守閣」を始め、19基の二重櫓、42棟の多門櫓や櫓門を持つ大城郭であったようです。
大城郭だった岡崎城(模型展示)
「天守閣」には、北東隅に「井戸櫓」が、南西隅には二重の櫓と平櫓が繋がった「複合式天守閣」ですが、二方向に付櫓がついていたので「複複合天守閣」とも言われているようです。
復興天守と井戸櫓と付櫓
また一重目に大入母屋で、その上に二重二階の物見が乗る「望楼型天守閣」であったそうですが、最上階には廻縁はなかったようです。
現在の「天守閣」は、資料に即した復元ではなく、観光用として最上階には高欄を設けたりしていますので、復元天守ではなく復興天守閣の部類に入るそうです。
その他現在の城郭建造物は、「復興大手門」がありますが、本来の場所からかなり南西に建てられているほか、「本丸辰巳櫓」跡には「巽閣」と呼ばれる平櫓風の建造物が建っています。また、2010年に東曲輪跡に、木造で望楼型の二重櫓の「東隅櫓」が復元されています。
復興大手門
巽閣
辰巳櫓台に建つ「巽閣」
「坂谷曲輪」には、「東照公産湯の井戸」が残っていたり、本丸北側の深い「空堀」や本丸南側には「水堀」も見ることができます。
空堀
水堀
再訪問時には、各種曲輪の現況と復元櫓をも報告したいと考えています。
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