本日は、1634年に徳川家譜代の重鎮であった「酒井忠勝」が入城して、整備拡張を行われた「小浜城」(福井県小浜市)を訪問します。
「小浜城」の歴史と城主について触れておきます。
関ケ原の戦いで功績のあった「京極高次」が若狭国を与えられ小浜の「後瀬山(のちせやま)城」に入城しました。その後、手狭であることから「小浜城」の築城を始めましたが、加増移封で松江へ移封となった後に入ったのが「酒井忠勝」でした。
この「酒井家」は、1月19日のブログ「鶴ケ岡城」で、「酒井家」の2系統の話を紹介しましたが、もう一方の系統(「徳川家康」の父親「松平広忠」の重臣であった「酒井正親」の系統)で、更に「忠利」の系統です。この系統が10万石で幕末まで「小浜城」を政庁として統治します。
立地と「縄張り」は、小浜湾に流れ込む二つの川に挟まれた三角州上に建てられている要害の地でありました。
「本丸」を中心に内堀を設け、その廻りを南から東にかけて「二の丸」「三の丸」が、東から北にかけては「北の丸」「西の丸」が取り巻く「輪郭式」の縄張りを形成していました。
城図
「本丸」には、三層三階の「天守」を始め「東櫓」「西櫓」「巴櫓」「射手櫓」など7基の櫓と「本丸御殿」が築かれていました。
現在は、野面積みの「天守台」と「小天守台」が残り、その上には礎石を見ることができます。それに続く「多門櫓」台、「西櫓」台と「埋門」、「乾櫓」台、「南門」、「毘沙門櫓」台、「射手櫓」台などの石垣がしっかりと残されています。
天守台と小天守石垣(西の丸と本丸との間の内堀跡から)
天守台上で礎石が見られる
天守台石垣(三層三階)と小天守跡石垣
本丸南西の天守台へ登る階段
本丸御殿跡
南門跡と内堀跡(天守台より)
本丸毘沙門櫓又は巴櫓跡石垣
東櫓跡石垣
本丸射手櫓跡石垣
本丸埋門(右西櫓石垣、左小天守石垣)
本丸埋門から西櫓と多門石垣(内掘り跡から)
本丸西櫓跡石垣
「二の丸」には「二の丸御殿」が置かれました。
「三の丸」には「大手橋」を渡った所に「大手門」を築き、「太鼓櫓」「五方櫓」「三ツ目櫓」「菱櫓」「人見櫓」など10基の櫓が築かれ、食糧や兵器の倉庫として使用されていました。
現在の大手橋(昔は、もう少し奥に架かっていた)
「北の丸」や「西の丸」にも多くの櫓が築かれ、全体で約30基もの櫓が建っていたそうです。櫓が写った古写真が残されていますが、櫓は「下見板張」の古風な感じの造りとなっています。
本丸の西側石垣(西の丸跡から)
北の丸から西の丸方向(北川方向)
1871年の失火によって、天守以外の建造物の大部分が焼失し、残った「天守閣」も合わせて1874年に撤去されました。
現在「本丸」内には、藩祖である「酒井忠勝」を祀る「小浜神社」が建てられ、「酒井家邸宅」の門が移築されて建っています。
小浜神社(本丸内、酒井忠勝を祀り明治8年築)
酒井家邸宅の門(現小浜城本丸内「酒井会館」の門、文化会館内から移築)
「本丸」周囲の東側の「内堀」は全て埋められていて道路となっています。「三の丸」跡には、保育園や簡易裁判所の敷地になっています。
本丸跡(現小浜神社)と内堀跡(本丸東側)
三の丸跡(現簡易裁判所、保育園)
市街地に戻ると、現在「若狭高校」の校門に、1774年に開設された藩校「順造館」の正門(市指定文化財)が残っています。
藩校順造館の正門(市指定文化財、現若狭高校門)
梅田雲浜像(小浜藩から脱藩した幕末活躍した人物、大政の大獄で獄死)
また、「小浜城」の初期の藩主となった「京極高次」の正室「常高院(じょうこういん)」のお墓が「常高寺」の奥でひっそりと佇んでいます。
「常高院」は、「豊臣秀吉」の側室「淀殿」の妹「お初」であり、妹は二代将軍「徳川秀忠」の正室「お江(おごう)」で、浅井三姉妹の一人です。
常高寺山門(常高院の菩提寺)
常高院(お初-藩主京極高次妻、常高寺内)の墓
小浜の西側には、重要伝統的建造物群保存地区の三丁町(猟師町・柳町・寺町の3つの総称で元茶屋町)が拡がり、江戸時代から明治時代にタイムスリップした雰囲気を味わうことができる街並みです。
重要伝統的建造物群保存地区の三丁町元茶屋町三丁町(元茶屋町)
重要伝統的建造物群保存地区の三丁町元茶屋町
重要伝統的建造物群保存地区の三丁町、ちりとてしゃんの撮影場所)
重要伝統的建造物群保存地区の元料亭酔月(明治期の建物)
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