本日は、壬生城(栃木県下都賀郡壬生町)を訪ねます。

 

元々は「壬生家」の居城でしたが小田原征伐で滅びた後、関ケ原の戦い以降は、「日根野家」「阿部家」「三浦家」「松平家」「加藤家」と目まぐるしく藩主が替わります。そして1712年に入ったのが「鳥居忠英(ただてる)」です。

 

本丸南側土塁と門跡

本丸南堀(右側)

「忠英」は、「徳川家康」の近臣だった「鳥居元忠」の子孫で、「元忠」は関ケ原の戦いの前哨戦に、西軍が「伏見城」を攻め立てましたが、死守して落城を遅らせた功労者でありました。

 

そういうことで、「元忠」が亡くなった後は、「鳥居家」は幕府からその功績に報いるべく加増が行われ一時は「山形24万石」まで昇りつめました。しかし、「元忠」の孫「忠恒」に子供がなく除封されてしまい、弟「忠春」に「高遠3万石」が与えられ、その後いくらかの転封を繰り返して、この「壬生城」の藩主となり「鳥居家」は幕末まで続きます。

 

「壬生城」は、天守も櫓もなく、「本丸」に御殿が置かれた簡素なお城でしたが、将軍の日光社参の際には宿泊城となり重要な役割を果たしていました。「本丸」を取り巻き「二の丸」「東郭」「下台郭」「正念寺郭」があり、各郭は土塁と堀で取り囲まれていました。

 

城址公園図

 

現在は、「城址公園」となり「本丸」跡には、図書館、歴史民俗資料館、中央公民館など行政施設が集中しています。「二の丸」西部には「鳥居忠英」が藩祖「鳥居元忠」を祀る為に建造した「精忠(せいちゅう)神社」が建ちます。更に「二の丸」跡の一部には、「壬生小学校」が建っています。

 

本丸御殿跡内に建つ公民館、図書館、歴史民族資料館

二の丸西部に精忠神社(鳥居忠英が藩祖鳥居元忠を祀る)

城跡二の丸一部(壬生小学校敷地、壬生城址公園の南)

 

「城址公園」入口には、塗り込めの「復興土塀」が延びていて、立派な「高麗門」も復元されています。また、美しい形をした土塁が多数残されており、特に「本丸」入口の門跡脇に残る「土塁」は南側の橋と整備された「堀」によって、お城の雰囲気をもたらしていると思います。

 

壬生城址公園の復興土塀 

壬生城址公園入口二の丸虎口に建つ復元高麗門 

本丸東側土塁

壬生城址公園内の土塁

本丸東側土塁

 

「壬生城」の遺構として、栃木県小山市内の民家に移築された「門」を見ることができます。民家の門としては、かなり立派なものです。

 

壬生城門(栃木県小山市内の民家H氏正門) 

 

最後に城下は、多くの歴史を感じさせます。特に、大通りを「蘭学通り」と言われるほど、幕末から明治にかけて「鳥居忠挙」が壬生に蘭学医を集めてこの通りに開業させました。その雰囲気を今に伝える家並みを見ることができます。

 

蘭学通りの二階長屋門 

蘭学通りの門と蔵 

壬生市街蘭学通りの旧家

壬生市街の蔵

 

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