今回は、「肥前国五島列島」内に築かれた「福江(石田)城」(長崎県福江市)の「前編」をお届けします。
まず「福江(石田)城」の城主と歴史についてお話をしておきます。
長崎県の五島列島を統治していた「五島家」は、元々は列島の宇久(うく)島を支配していて「宇久家」を名乗って水軍として活躍していました。「豊臣秀吉」の九州遠征時に傘下になって「五島家」と名字を替えました。
関ケ原の戦い時には、中立を保ったことから、その後は五島列島を任され幕末まで続きます。
「五島家」の石高は1万5千石で、「石田陣屋」に居を構えていました。近海に異国船が出没するようになったので、幕府に築城を何度も嘆願していましたが許可が下りませんでした。しかし、幕末期の海上防衛や異国船に備えるべく国防の重要性が唱えられる中で砲台を築くと、今度は幕府からお城を築くように命じられたので、晴れて「福江(石田)城」を築くことができました。
北海道の「松前城」と同様に国防の観点から築城した、江戸時代最後のお城です。
福江城全景模型(五島家12,600石、長崎県福江市福江町)
「縄張り」は、「本丸」「二の丸」「三の丸」「北の丸」から構成され、「本丸」を「内堀」で囲い、その周囲には「二の丸」と「三の丸」が取り巻く「輪郭式」の城郭です。そして、その周囲は海で守られる「海城」でもあります。
「本丸」には「御殿」の他に、櫓台が備えられていましたが櫓は建てられず、海上防衛用として大砲を据え付ける「石火矢台場」としていました。西側には「大手門」が、北側には「埋門」がありました。
現在の本丸跡は、「県立五島高校」の敷地になっていて、校舎が立ち並んでいます。「埋門」跡は石垣で埋められていて、「二の丸」側から見上げるとその形が今でもよくわかります。
本丸東南隅櫓台(石火矢台場)と五島高校の校舎
本丸大手門(表蹴出門)跡石垣
本丸埋門跡(構内入口門の南側)
福江城本丸跡碑と埋門(校門入口)
本丸埋門(校内入口)に架かる石橋
「二の丸」は、長大な石塁で仕切られて、石塁に設けられた高麗門の「二の丸裏門」があり、現在は高校の校門となっています。
「二の丸裏門」
「二の丸裏門」
「二の丸裏門」と櫓台
更に「二の丸」跡は、五島高校のグランドや幼稚園の敷地になっていますが、「隠居屋敷(本屋敷)」と心字ケ池を中心に造られた庭園が残り国指定名勝に指定されています。
私が行った時は、丁度閉園していましたので、その美しさは門前に掲出されていた写真でしか見ることができず残念でした。
グランド脇の二の丸石垣
五島氏庭園門
「隠居屋敷(本屋敷)」と心字ケ池を中心に造られた庭園(門前に掲出の写真より)
「二の丸」の西側は搦手にあたる場所で「蹴出門(けだしもん)」の高麗門が現存していて、その前には「石橋」が堀上に架けられています。
門の脇塀には、矢狭間と鉄砲狭間が備わる他、それに続く土塀の屋根の瓦も特徴的な形をしています。また、「蹴出門」の内側には切込接乱積の石垣と雁木を見ることができます。
二の丸北西石垣と蹴出門・土塀と外堀
二の丸北西石垣と蹴出門・土塀、外堀に架かる横町橋
蹴出門と土塀、雁木
蹴出門脇の土塀 (屋根瓦がかわっている)
「本丸」の北側を取り巻く「三の丸」の東隅部には方形の「舟入(ふないり)」があって、城内から「水門」を通って直接海へ出られるようになっています。
「舟入」の横には、城郭風建築物の「五島観光歴史資料館」が建っていて、その正面には「表門」の枡形を見ることができます。
水門、舟入跡、荷揚場
水門(藩主が利用する時は小舟でここから出て沖合の大船に乗り換えた)
城郭風の五島観光歴史資料館(二の丸内)
二の丸表門(桝形)
二の丸表門枡形
二の丸表門桝形内の切込ハギの石垣
「表門」から出た所は「北の丸」ですが、現在はその周囲は埋め立てられていて、公園と住宅街になっています。公園から「二の丸」方向を眺めますと、「二の丸」の石垣が遠くまで延びていることが確認でき、石垣が素晴らしいお城であったことが偲ばれます。
本丸北東側石垣
福江の町には、他に見どころが多くありますので、次回のブログで紹介したいと思います。
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