「徳山城(陣屋)」(山口県周南市)は、「毛利輝元」の次男である「就隆(なりたか)」が、1617年に3万石の分与を受けて、長州藩の支藩として立ち上げられた徳山藩の居館です。

 

1715年に宗家との国境を巡る争いがあり、幕府から廃藩を命じられましたが、藩士などの再興運動によって再興されました。その後藩政改革が高く評価され4万石に加増されて城主格となりました。

 

しかし、お城そのものは、堀もなく土塁によって囲われただけの居館中心の陣屋仕立てのお城でしたが、敷地面積は非常に広く、日本三大陣屋の一つとしてあげられます。因みに、その他の2陣屋は、福井県敦賀市にある酒井家の「敦賀(つるが)陣屋」と千葉県富津市にある保科家の「飯野(いいの)陣屋」であり、特に「飯野陣屋」は古墳を取り込み周囲を掘りで囲う陣屋跡が現在でも残っています。

 

徳山陣屋跡土塁跡(現周南市文化会館)

徳山陣屋跡全景(現周南市文化会館)

「徳山城(陣屋)」の現在は、メインが周南市文化会館や周南市徳山動物園に変貌している敷地に加え、1811年に徳山毛利家の霊社として建立された「祐綏(ゆうすい)神社」になっています。

 

祐綏(ユウスイ)神社 (1811年徳山毛利家の霊社として建立)

文化会館の前には、「徳山城(陣屋)」の御殿庭園が一部残されているのと、そこには、大坂城築城の際に石の調達を命じられて用意した大きな石が使用されないで残石となって横たわっています。

 

大坂城築城残石(大津島の石98個の内の1個、1620~29年間の

大坂城大改修時のもの)

藩邸の庭園跡 

お城にまつわる遺跡としては、藩校「興譲館」の石碑が現在徳山小学校前に建っていて、その前を走る道路が、「桜馬場」として使用されていました。

藩校「興譲館」跡で現在徳山小学校

徳山毛利家の菩提寺「大成寺(だいしょうじ)」には、「徳山藩毛利家墓所」があり、歴代の藩主の墓標が立ち並んでいます。その中でひときわ目立つ廟所が二つありますが、藩祖「就隆」の廟と奥方の廟が仲睦まじく並び、立派な唐破風本瓦葺の覆屋に囲われて墓標が立ちます。

 

徳山藩毛利家墓所の入口(大成寺) 

徳山藩毛利家墓所 (藩祖就隆の廟と墓) 

徳山藩毛利家墓所 (就隆の奥方の廟と墓) 

その他にも、徳山藩士であり明治時代に陸軍大将になった「児玉源太郎」を祀った「児玉神社」や、その実家跡と産湯をとった井戸が残る他、当神社内には、幕末に尊王攘夷派として活躍した七人の志士を顕彰した「徳山七士(しちし)碑」が立ちます。

 

児玉源太郎の銅像(児玉公園、元陸軍総大将)

児玉源太郎産湯井戸

徳山七士碑 

「徳山城(陣屋)」のように、近代建築物で全く変貌しているお城は多数あります。しかし、その周辺を隈なくお城の遺構を探し当てるのは、非常に楽しい探索であります。私は、色々な方のネット情報や観光協会の資料、書籍の情報を事前に予習をして臨み、時間のある限り探し求めるので、目立った遺構がないお城でも、いつも楽しくお城巡りをしています。