「長府陣屋」については、昨日のブログで紹介しましたが、1863年から長州藩による外国船への砲撃開始が始まったことで、海岸に近い当陣屋に対する外国艦隊の報復砲撃を受ける可能性があることから、13代藩主「毛利元周(もとちか)」によって、奥へ4㎞にある中世山城「勝山城」の麓に御殿を移した、というお話を記載しました。

 

この御殿名を「勝山御殿」(山口県下関市)といいます。三の丸、二の丸、本丸と階段状の3段構造になっています。最上段の「本丸奥」は、城主の居館が置かれ、周囲には高石垣を巡らせていました。「本丸奥」と「本丸中段」との間には石垣が築かれて段になっていて、手前には現在は埋められていますが水堀が施されていました。、「中段」の本丸表とは廊下で繋がり、外部へは「西門」から出入りができました。

 

御殿絵図(現地の案内より)

本丸表(中段)南西隅角部の石垣

本丸表(中段)の石垣 (当時随一の名工、延右衛門が起用、落とし積み技法)

本丸表門跡

本丸表(中段)御殿跡(上段より表門方向)

本丸表(中段)と最上段の石垣

本丸最上段御殿跡(藩主居間・表向) 

本丸最上段の石垣(手前に水堀があった)

「中段」は、政務を行う場所と、来客を迎える場所として使用され、「御座の間」「大御書院」「殿間」「御茶室」など10余りの部屋が設けられていました。「中段」には、「表門」「東門」「西門」の3か所が設けられ、「表門」は石垣の上に乗り、その前はスロープになって「二の丸」へ降りるようになっています。昨日のブログでも触れましたが、「御殿書院」の玄関が「覚苑寺」の庫裏に、「表門」は「了圓寺」山門に再利用されています。

本丸表(中段)の西門 

本丸最上段西門跡

本丸表(中段)の東門石垣 

「本丸中段」と「二の丸」の間の段には、高石垣が築かれていて、積み方は最新工法の「落とし積み」を採り入れていました。また、西側の石垣は、「入角」と「出角」を設けた側面を攻める手法を採用しています。「二の丸」は、「本丸」を防衛する馬出的な役割を担っていたようです。

 

二の丸から本丸表への階段

二の丸石垣

「三の丸」は最も低い場所に置かれ、南側に凹型の「大手口」が置かれ、その脇の凸状の石垣の城累によって横矢掛りを狙っていたところもありました。

三の丸全景(左に大手口跡)

現在は、発掘調査も終わり、全体が勝山地区公園として整備されています。

 

勝山御殿本丸玄関を使用した覚苑寺の庫裏(方丈) 

本丸表門の移築先了円寺山門(下関市、現地掲出の写真より)