前々回のブログでは、毛利家本家のお城「萩城」と「山口城」をお伝えしましたが、本日は毛利家本家の支藩となる「長府陣屋」(山口県下関市長府)に訪問をします。

 

「毛利元就」は、「隆元」「小早川隆景」「吉川元春」の両川(りょうせん)と呼ばれた3人以外にも、腹違いの子供がいました。「元就」の4男であった「穂井田元清」の子で、「輝元」の養子になったのが「毛利秀元」でしたが、「輝元」に子供「秀就」が生まれたことから、毛利本家の領地から一部を分与されて独立をさせられました。

 

当初は「櫛崎城」を居城としましたが、一国一城の令によって廃城となり、その北側に「長府陣屋」を設けました。「櫛崎城」は、周防灘に突き出た半島部分に構えられて櫓3基あったようで、現在残っている櫓台の石垣は、松崎口にあった二重櫓のものだそうです。

 

大手門二重櫓跡石垣(陣屋松崎口) 

復元された「天守台」は「付櫓(続櫓)」付きの複合式天守のようですが、天守代用の「関見櫓」として上がっていたのかどうかは、資料がなく不明だそうです。現在の復元天守台は、「関見台公園」として整備されています。

 

「長府陣屋」は、居館のみでその跡地には、現在「豊浦高校」の敷地となっていて、道路沿いには城郭風の土塀が曲線を描いて綺麗に建っています。また、「船手」「舟入」だった所は「豊浦高校」のグランドになっています。

 

長府(豊浦)陣屋跡(現在 豊浦高校敷地) 

国道9号線を渡った一帯が城下となりますが、そこには「長府毛利家別邸」を始め、古江小路沿いには白壁や赤壁の土塀が続く中に、侍屋敷の長屋門や古い家並みを見ることができて、江戸時代の雰囲気を味わうことができます。

 

長府毛利邸正門 

長府毛利邸書院母屋(長府毛利家14代元敏が当地へ戻り明治36年に

建てられた建物、明治天皇の宿泊地としても利用)

長府毛利邸 休憩室から明治天皇御宿泊の間を臨む

長府毛利邸内

古江小路

古江小路沿いの練塀

長府藩侍屋敷長屋 (桁行8間・梁間2間、入母屋造、桟瓦葺)

菅家長屋門と練塀

野々村家表門(藩130石、毛利家から下賜された門で毛利家紋入り、薬医門)

また、「覚苑(かくおん)寺」「功山寺」「笑山(しょうざん)寺」の各菩提寺は、長府毛利家の墓所になっていて歴代藩主の墓が並んでいます。

 

覚苑寺(長府藩の菩提寺で藩主墓地、6代藩主匡宏墓碑)

功山寺長府毛利家墓地

笑山寺(ショウザンジ 長府毛利家の菩提寺の一つ、二代・十七代の墓碑)

幕末に、海辺近くに築かれた「長府陣屋」の居館が、外国船からの砲撃の標的になるのでないかとのことで、13代「元周」の時に、少し内部に入った所へ「勝山御殿」を築いて避難しましたが、その「勝山御殿の本丸玄関」を移築して「覚苑寺の庫裏(方丈) 」に再利用されています。

 

勝山御殿本丸玄関を使用した覚苑寺の庫裏(方丈) 

勝山御殿本丸玄関を使用した覚苑寺の庫裏(方丈) 

「功山寺」は、1863年の政変によって長州藩は御所守衛の任を解かれ、尊攘派の三条実美など7卿とともに山口へ戻りましたが、その7卿が暫くの間当寺書院に潜伏していました。また、「高杉晋作」がこの寺の敷地内で挙兵したことでも有名です。仏殿は国宝に指定されています。

功山寺仏殿(国宝)

「勝山御殿」は、つい先日国の史跡指定を受けました。次回ブログでご紹介したいと思います。