「豊臣秀吉」の天下を予見した藩祖が幕末まで居城したお城シリーズは、本日「米沢城」(山形県米沢市)にスポットを当てます。

 

この藩祖とは「上杉景勝」で、彼は越後の雄「上杉謙信」の兄である「上杉政景」の次男でしたが、「謙信」は生涯独身であったので「謙信」の養子として迎えられました。しかし「謙信」には、もう一人後北条家からの養子「景虎」がいましたので、「謙信」死後には後継者争いになり「御館の戦い」が起りました。結果は、「景勝」の勝利となり上杉家を継ぐことになります。

 

「秀吉」が天下を取った後は、「景勝」は豊臣家に接近し1586年に「秀吉」に臣従します。小田原の戦いや朝鮮出兵で手腕を挙げ、豊臣政権の五大老にまでのぼり、会津に転封となり石高も「徳川家康」「毛利輝元」に次ぐ程にもなりました。

 

「秀吉」死後は、「景勝」の家臣であった「直江兼続」のフォローの下で、「家康」に対する徹底抗戦をしかけようとしましたが、関ケ原の戦いで西軍が敗れたことから、米沢へ追いやられ30万石まで減封され「米沢城」を居城としました。

 

菱門橋と本丸菱門口(左)、右が馬出

「景勝」の孫である「綱勝」は嗣子がなく、あえなくお家断絶になるところでしたが、色々な工作によって、あの赤穂事件「忠臣蔵」の当事者である「吉良義央(よしなか)」の子の「上杉綱憲」を養子として迎え入れてお家存続が許されましたが、更に減封となり15万石となりました。

 

収入が120万石から30万石へ、更に15万石に半減したものの、藩士はほぼそのまま召し抱え続けたこともあり、非常に財政が厳しい時代が続きました。しかし江戸時代中頃に9代藩主に付いた「上杉治憲/鷹山(ようざん)」が、質素倹約を自ら行い、各種の殖産を導入し、「成せばなる 成さねばならぬ 何事も 成らぬは人の 成さぬ成りけり」を謳い続けて自らも実践し続けたことから、藩政改革に多大な成果をあげたお話は有名であります。

 

上杉鷹山像、後には上杉謙信の祠堂跡

「米沢城」は、石垣の無い土塁のお城で、本丸を二の丸と三の丸が取り囲む典型的な輪郭式平城でしたので、高い土塁と堀によって守られていました。本丸虎口は、南、北、東の3箇所ありましたが、東側の虎口を「大手口」としていました。また、南の虎口には「菱門橋」の外側に「角馬出」を設けていました。

本丸北門跡(この西側に北西御三階櫓があった)

旧南門付近から本丸をのぞむ、左は馬出跡

本丸西側堀

「大手口」を出た東側には、「二の丸大手御門」を設けて「馬出」がありました。また、「北門」と「西門」から三の丸に出られるようになっていました。

 

本丸には、「北東御三階櫓」と「北西御三階櫓」が建ち、中央には「本丸御殿」が、南東隅には「上杉謙信」を祀る祠が建てられていました。明治5年に写された「北東御三階櫓」の写真が残されており、層塔型で下見板張り、初重に切妻の出窓が付き、三重目には唐破風の出格子窓を設け、屋根は杮葺きであったようです。

 

本丸北東御三階櫓台

現在は、本丸東の「大手口(大手門)」を入った左側「上杉謙信」の祠堂があった跡には、「上杉鷹山」の像が立ち、その奥には「上杉謙信」を祀る「上杉神社」が大きな敷地をとっています。「上杉神社」の裏側から二の丸に渡る赤い橋「菱門橋」が堀に架かり、美しい姿が堀面に映されています。また、渡り切った場所が「馬出」跡で堀で区切られていて、わかりやすくなっています。

 

本丸内に建つ上杉神社

二の丸へ渡った所には、立派な入母屋造りで銅板葺きの「上杉伯爵邸」が建っています。これは、14代茂憲の邸宅として明治29年に建築されましたが火災で焼失し大正時代に再建されたものです。建物自体は重要文化財ですが、現在は米沢牛を中心に郷土料理を出す日本料理店となっています。

上杉伯爵邸(現 日本料理店)

上杉伯爵邸(現 日本料理店)の塀

更にその南側には、「鷹山」が隠居後に居住した御殿「餐霞館(ばんさんかん)」の跡碑が立ちます。二の丸東側の広々とした「二の丸御殿」跡には、上杉鷹山など上杉家の資料が展示されている「伝国の社」の近代的な建物が建ちます。

 

餐霞館(ばんさんかん)の御殿絵図

餐霞館(ばんさんかん)の跡碑

二の丸御殿跡

二の丸から本丸をのぞむ(伝国の社敷地)

私が「米沢城」を訪れたのは真夏の夕方でしたが、「米沢城」の周辺を散策していると、暑い夏にも拘らず「すき焼き」のいい匂いがあちらこちらから匂ってきて、思わずお腹の虫がグーと鳴いたことを思い出します。関西でも、米沢牛の知名度が高く美味しい肉として売り出されていますが、この日は次の地「上山城」へ向かわなくてはならず、ありつけなかったのが心残りでした。

 

林泉寺山門(上杉家奥方の菩提寺)

林泉寺(上杉家奥方の菩提寺)