「豊臣秀吉の一族、子飼いから大名になった”お家”のお城シリーズ」は暫くお休みしていましたが、本日は、「秀吉」に若い時から仕えていた「脇坂安治」の子孫となる脇坂家のお城について紹介します。
「安治」は、賤ケ岳の戦いの「七本槍の一人」として有名になりました。その後の働きによって、豊臣政権下では淡路国を任され「洲本城」城主となりました。そして、関ケ原の戦いでは西軍で参加していましたが、「小早川秀秋」の裏切りを見て東軍に付きました。この事が西軍の大勢を崩す要因となり、戦後は家康から領土を安堵されました。
その後「脇坂安治」の子孫は、大洲藩、飯田藩への移封があり、1672年からは播磨国龍野へ移って「龍野城」(兵庫県たつの市龍野町)に居城して幕末まで続きます。
元々は、赤松氏のお城でありましたが、秀吉の播磨平定でその傘下となり秀吉の家臣が城代となり、また江戸時代に入っても京極家等目まぐるしく藩主が替わり、その後は「一国一城の令」で一時破却されていたのが、脇坂家入城に際して再建されました。
「龍野城」は、お城というものの、脇坂家は外様大名であったことで、本格的な城郭建築物は幕府の目を気にして建造されず、山麓部に「御殿」を中心としたお城を再築しました。僅かに、東側に多聞櫓と太鼓櫓が造られ、南側の正門は「埋門」と呼ばれる櫓門が上げられました。そこから坂を下って城下へ出る「冠木門」ともう一つ「錣坂(しころさか)門」がありました。
復興御殿の大唐破風を持つ玄関
復興「埋門」の櫓門と付櫓
西側の山麓には、手狭な城内を補うために「上屋敷」をもうけて「城主屋敷」として使用されていましたので、その敷地内には茶室「聚遠亭(しゅうえんてい)」等が建てられていました。
茶室「聚遠亭」(現存、龍野市有形文化財)
現在は、1979年に御殿跡へ「本丸御殿」が再建されるとともに、「錣坂(しころさか)門」跡付近には模擬の「二重櫓」が建てられました。また、高麗門で造られた「裏門」の復興や、正門である「埋門」は江戸時代の絵図に基づいて「櫓門」と「付櫓」が復興されています。最近の御殿復元ブームに先駆けた「御殿」の復興であったと思われます。
復興「本丸御殿」(入母屋造りが2連結)