[豊臣秀吉」の小田原攻め(1590年)に参戦した「戸沢家」は、平清盛の叔父である平忠正の子孫で、当時の本領であった角館を安堵されます。この後「戸沢政盛」は、「徳川家康」の重臣だった「鳥居元忠」の娘を娶ったことから、関ケ原の戦いでは東軍で参加して本領を安堵されます。その後、最上家の領地の一部であった新庄に「新庄城」(山形県新庄市)を築き、6万石に加増されて移封となり幕末まで続く大名となります。

 

「新庄城」は、湿地帯に土塁と水堀で築かれましたが、出入口周辺の要所には石垣を用いて防御力を高めました。「本丸」の南側に小さな「西の丸」を置いて、その周辺を堀と「二の丸」で囲いました。更に、「三の丸」の周辺には、外堀で囲っています。

水堀は、満々と水を湛え、土塁上の木々の緑が水面に映って、美しい姿を見せています。

 

新庄城址本丸入口と内堀

本丸表門跡石垣(内枡形門)

「本丸」には、西側中央部に三層の「天守閣」が築かれていましたが焼失しその後は築かれませんでした。また「本丸」隅部には、「小納戸櫓」「大納戸櫓」「武器櫓」の三か所に櫓を設け、「本丸表門」は石垣で構え、その櫓台の石垣が残ります。

 
天守台跡

小納戸櫓跡土塁

大納戸櫓跡土塁

武器櫓跡土塁

本丸周辺の土塁

本丸全景

本丸土塁と内堀(南側)

「本丸」中央には、「御殿」がありましたが、現在はその跡地に「戸沢神社」が建っています。更に、南東には城主の氏神であった「天満宮」が城内唯一の現存建物として残ります。茅葺の屋根っていいですねー

 

戸沢神社御殿玄関跡付近

天満神社本殿(城内唯一の遺構)

本丸裏門跡

「本丸」の南側の小さな曲輪(西の丸)には、「御殿」が建てられ多くの蔵が並んでいたようです。「二の丸」は、侍屋敷が並び「大手門」が構えられていました。「大手門」は、内桝型で「一の門」と「二の門」からなり石造りであって「二の門」は「櫓門」でした。「二の丸」東側の現在は、新庄市老人福祉センターや保健センターなどの行政施設が建ち並んでいますが、「二の堀」の堀跡を見ることができます。

 

二の丸への出口

本丸と二の丸の間の堀(南側)

二の堀跡

「戸沢家墓所」が、新庄市内の「瑞雲院」にあります。国史跡として指定されており、6棟の「廟」があり10人の藩主が祀られています。「廟」は、単層宝形(ほうぎょ)造りで、欅造りの屋根は茅葺きという素朴な感じで造られています。是非ここまでは、足を運ばれることをお薦めしたいと思います。

新庄藩戸沢家墓所配置図

戸沢家墓所復元入口門と三号棟(奥)

三号棟(1747年築)と一号棟(右、1704-21頃)

五号棟(1788年築)