「織田信長」に仕えた後に「豊臣秀吉」に引き立てられた「山内一豊」は、関ケ原の戦い後に「高知城」(高知県高知市)を築いて、その子孫が幕末まで続きました。

 

「山内一豊」は、「秀吉」の傘下において、中国地方遠征を始め、山崎の戦い、賤ケ岳の戦い、小牧・長久手の戦いを経て「長浜城」の城主となります。更には、紀州攻めの働きによって若狭の高浜城を与えられ秀吉政権で大名となります。そして、小田原攻めの後には、「掛川城」で5万石の領主となります。

 

「一豊」は、加藤清正と石田三成との対立の中で、武将派についたので「徳川家康」に接近するようになります。会津攻めの際には、「小山評定」で、いち早く「家康」に対して「掛川城」を明け渡す旨を表明して、関ケ原の戦いでも東軍で働いた結果、戦後にはその功績として長宗我部家の旧領地の土佐一国が与えられました。これらには、妻の「千代」による内助の功があったとされています。

 

小山評定所跡(栃木県小山市-関ケ原の戦い前に徳川家の命運を

決める重要な軍議が行われた場所)

高知城内に立つ山内一豊の妻「千代」と白馬の像

「一豊」は当初、長宗我部家のお城であった「浦戸城」に入りましたが、新たにお城を造るべく河中山(こうちやま)で工事を始めましたが、洪水等に阻まれ1611年にやっと三の丸ができて「高智城」と名を改め、更に「高知城」となりました。

 

山内一豊像

1727年に享保の大火が起り、「追手門」等の僅かな建物以外「天守閣」含めて全て焼失してしまい、再建に長い時間を要して1749年にやっと、二の丸、本丸が再建されました。三の丸の再建は、更に4年後となりました。

 

享保大火で焼失免れた「追手門」(重文)

「高知城」は、梯郭式平山城で鏡川と江の口川を外堀として活用しています。現存の三層六階の天守閣は、前任地掛川時代の「掛川城」を模したと言われていますが、18世紀半ばに再建した割には、当時主流の層塔型天守にしないで旧型の望楼型天守に建て替えたのは、「一豊」を表敬する目的で、当時のモノを再現したかったからだと言われています。

 

高知城天守は「掛川城」天守を模したと言われている

その天守閣や本丸御殿と納戸蔵、廊下橋と詰門から繋がる本丸周辺を取巻く東・西多聞櫓、そして黒門と、本丸の建物が完全に残る日本唯一のお城であります。

 

高知城「天守閣」と「本丸御殿」

次回のブログからは、「高知城」の建物を中心に、詳細に見ていきたいと思います。