「福岡城」(福岡県福岡市中央区)をこれからお届けしていきます。
まずは「福岡城」の歴史と城主についてお話します。
築城は、豊臣秀吉の軍師として働いた黒田孝高(よしたか、黒田官兵衛)の子「黒田長政」です。
「長政」は、一時信長の下で人質として預けられていて、秀吉の本拠地である長浜で過ごしました。2014年に放映されたNHK大河ドラマ「軍師 官兵衛」の、このシーンを思い起こすことができますねー
その後、長政は官兵衛とともに各地に従軍して、秀吉配下の若手武将の一人となり、更には九州遠征でも、親子共々大活躍して官兵衛には豊前国中津城が与えられます。
1589年に官兵衛は隠居して長政が後を継ぎ、朝鮮出兵での武闘派との絆が深まり徳川家康に接近していくことになり、妻も家康の養女を娶ることになります。関ケ原の戦い時には、対石田三成の位置に立ち東軍として出兵します。
関ケ原の戦い後は、長政は筑前国52万3100石を与えられ「名島城」に入りますが、1601年に福崎に城を造り「福岡城」と名を替えそこへ移ります。
名島城脇門(黒田長政が名島城から福岡城に移す際、林掃部に下げ渡された)
名島城唐門(現 崇福禅寺塔頭内、県指定文化財)
大坂夏の陣にも参戦することによって、長政は徳川家の忠実な外様大名とみなされるようになりました。二代藩主忠之の時には、家臣の栗山大膳によって、藩主が幕府に謀反を企てていると訴える事件が起こされますが、徳川家との縁が深いことから、福岡藩は一旦はお取り潰しされるものの、再興されるという大甘の処分でした。
その後は、「福岡城」(福岡県福岡市中央区)を中心に、商業を奨励したことで、比較的豊かで発展した城下であったようです。城内の二の丸御殿や北の丸御殿の増築も何度か改修が行われましたが、特に幕末の11代藩主長溥によって大改修が行われました。
さて「福岡城」は、梯郭式の平山城で、東から東丸、東二の丸、二の丸、本丸、南二の丸、三の丸、北の丸と繋がります。天守台は大・中・小の三つが東に向かって並び、礎石も残されていることから建物があったことは確かでありますが、天守閣が存在したという資料は未だ見つかっていないようです。
城郭建造物は、47基の櫓と10棟の城門を配していて、大城郭でありました。更に、東側を流れる那珂川を高石垣で堀の代用とし、現在西側にある大濠公園は元々は干潟であって大きな池沼堀として活用されていました。
大天守台(南側から)
小天守台(左)と中天守台(右)のあいだにある門跡階段
南二の丸多聞櫓(重文、南隅櫓から)
伝潮見櫓(右)と下之橋大手門(左)
池沼堀を活用した「大濠公園」
次回では、現在の「福岡城」を「東丸」から訪ねていきたいと思います。
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