「高安城」から、尾根沿いのハイキングコースを歩き「信貴山(しぎさん)城」へ向かいます。

しかし細い道に、笹やクモの巣やらが邪魔をしますし、クマやイノシシが出てこないかコワゴワ進みますが、殆どが下り坂ですので、このコースは良かったです。

 

当初は、「高安城」を見学して一旦高安山駅まで戻りバスで信貴山門まで乗車し、そこから「信貴山城」まで登るところでしたが、ハイキングコースを歩いて正解でした。

 

「信貴山城」(奈良県生駒郡平群町)は、何故訪問したかと言いますと、”戦国時代の三悪人”とか、”存命中には三大悪事”を働いたとか、極めつけは織田信長に攻められた際には、名器である「平蜘蛛茶釜」を信長に渡せば助命すると言われたのに、その茶釜とともに「信貴山城」もろとも燃やして果てたという狂気的な「松永秀久」が居住したお城であったことに、非常に興味があったからです。

 

「信貴山城址」碑と解説

しかし「秀久」は、そんな変人だけではなく、お城造りには、色々なアイデアを駆使して、近世城郭の礎をつくった戦国大名でもあったようです。

近世城郭では、必ずどこかの箇所に造られた「多聞櫓」、これは石垣上に土塀を建てる替りに、中を廊下或いは倉庫にした長い長屋風建物を建てて外部からの防御を堅固にする櫓を「多聞山城」(奈良県奈良市法華町)で開発したといわれています。また、天守閣も現存しているような形にしたのは、彼が最初ともいわれています。

 

近世城郭に興味のある私としては、彼を見逃すわけにはいかないのです。

 

ところで、前述の、”戦国時代の三悪人”とは、①斎藤道三 ②宇喜多直家、そして③松永久秀です。

また、、”存命中の三大悪事”とは、①主人であった三好長慶を殺害した ②時の足利将軍13代の足利義輝を暗殺した  ③東大寺を燃やした というエゲツナイことをした人です。

 

松永久秀絵(観光案内所に掲出)

現在の「信貴山城」は、麓に「信貴山朝護孫子寺(しぎさん ちょうごそんじ)」の伽藍が拡がっていますが、その本丸である標高437mの所に「空鉢護法堂」が建てられています。そして、そこからの眺めと爽やかさは素晴らしいものがあります。

 

本丸跡に建つ「空鉢護法堂」

「空鉢護法堂」の入口付近には、「信貴山城」の看板が立ち、土塁と虎口のような箇所も見られます。そこから少し入った場所には「城址」碑があり解説もされています。

虎口と土塁跡

解説板にある曲輪図(中央上に松永屋敷)

信貴山城の幟

「高安城」からのハイキングコースから「信貴山城」の手前に分かれ道があり、「松永屋敷」跡への道しるべがありましたが、細い草だらけの道を分け入っていくには少々勇気がいり、私は軟弱だったので断念しました。しかし、自宅へ戻り調べると梯郭状の曲輪や石垣や土塁が残っていたようで、すごく残念な思いをしています。もう少し、秋になってから入ることをお勧めします。

 

信貴山城の縄張絵(観光案内書に掲出)

「空鉢護法堂」からは、ひたすら下りの階段を、足を踏み外さないように降りていきますが、逆に上ってこられる方とは、数名すれ違いましたが、「まだまだですか?」と汗を流して息を切らせて大変な様子でした。ハイキングコースで高安城から信貴山城へ移動したのが大正解!

しかし、結局、「信貴山城」らしさを体験できたのは、本丸の箇所だけで、空堀や堀切などを確認はできませんでした。

 

「信貴山朝護孫子寺」の本堂では、真っ暗闇の中を歩きお願いをする「戒壇」を体験し、伽藍の中を散策、そして最後に赤門を出たところで、日本最大の「大寅」に遭遇しました。

 

聖徳太子が物部守屋を討伐しようとこの山に立ち寄り、戦勝祈願をすると毘沙門天王が出現して必勝の秘法を授かったとか。その日が丁度、寅年で、寅の日で、寅の刻だったことから、それ以来聖徳太子は信貴山の毘沙門天王は寅に縁がある神として信仰したとのゆかりがあるそうです。

 

「信貴山朝護孫子寺」の成福院

「信貴山朝護孫子寺」の多宝塔

大寅

ケーブルカーの寅さんもそういう縁で描かれていたんですねー