本日からは、「鳥取城」(鳥取県鳥取市)を訪問します。

 

「鳥取城」の歴史と城主についてですが、古くは山名家一族が築城し、その後は毛利家の侵攻などがありましたが、山名豊国が城主となります。織田信長の中国侵攻に伴い、豊臣秀吉が吉川経家率いる鳥取城を、かの有名な「兵糧攻め」で開城させるに至りました。

 

当初は久松山263mに築城(山上ノ丸)

秀吉に攻められた吉川経家像と久松山

 

関ケ原の戦い後は、戦功によって池田長吉が6万石で入城しました。1617年に池田光政が32万石で入城してからは、大大名に相応しい大城郭への整備が行われました。

 

山上ノ丸本丸跡 内の車井戸(池田長吉が1602年改修時に掘る)

 

その後は、「池田家」のお城となりますが、複雑な系統の中で城主が替わりました。

 

池田恒興の子輝政には三人の息子がおり、正室の子利隆(としたか)、徳川家康の孫忠雄(ただかつ)と忠継がいました。利隆は、輝政の遺領42万石と姫路城を継ぎましたが、その中から10万石を岡山城主忠継に与えられました。

 

利隆が亡くなった時には子光政が幼少であったので鳥取藩主とされ「鳥取城」に入城します。

 

その後、岡山城主であった忠雄が亡くなると、今度は忠雄の子光仲(みつなか)が幼少で、岡山の重要な地を任せられないとのことで、「岡山藩と鳥取藩の領地交換」を幕命によって指示され、鳥取城主だった光政が岡山城に入城し、逆に光仲が鳥取城主となりました。その後、光仲の系統が幕末まで統治することになります。

 

次回からは、三の丸、二の丸からアプローチをしていきたいと思います。

 

 

 

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