本日は、将軍庶子系・姻族系松平家の本庄松平家四代資昌(すけまさ)が、入城した現在の京都府宮津市の「宮津城」に、訪問したいと思います。

 

先日触れましたが、「本庄松平家」は宮津松平家とも呼ばれます。家祖宗資(むねすけ)は、五代将軍綱吉の生母である桂昌院の異母弟ということで大名家に取り立てられ、その子資俊から松平家を名乗ることが許されました。そして、本庄松平家四代資昌(すけまさ)の時に宮津城に入城しました。

 

宮津には古くは国府があり、戦国時代には、織田信長の命令によって、細川藤孝がこの地を攻めたことによって丹後国を与えられ、その中心地にお城を築いたのが宮津城でした。関ケ原の戦いの時には、細川幽斎(藤孝)の子忠興は徳川方についたために、石田三成の西軍から攻められることになり、宮津城を明け渡し、幽斎は隠居城の田辺城へ逃れ籠城しました。

 

関ケ原の戦い後は、京極高知が12万3千石で丹後に入り宮津城を改修しましたが、二代目高国の代に領国を召し上げられました。その後は、永井家、阿部家、奥平家、青山家と次々と譜代の大名が交替して、1758年に7万7千石で入城した前述の宮津松平家四代資昌以降は幕末まで7代の宮津松平家が統治しました。

 

お城は、海側に本丸を置いて、南側に二の丸、三の丸と拡がる梯郭式曲輪で、本丸と二の丸を囲む内堀、中堀には石垣が築かれ、大手川が外堀の役割を担っていて川沿いにも石垣が築かれていました。そして、京極氏が入城した際には7基の櫓が建てられました。

 

城郭図

現在は、本丸跡は全く遺構は残らず、宮津郵便局の北東側NTTビル一帯ということです。二の丸跡には、本丸入口の「鉄門」の袖石の巨石や、大手橋橋脚の礎石が展示されている場所があります。余談ですが、私がだいぶ以前に訪問した際には、写真に納めたのですが、現在見つけることができず、ここに掲出することができないことが残念です。

 

宮津小学校の敷地内には、「馬場先御門の太鼓門」が現存していますし、大手川沿いの石垣も現存しています。

 

太皷門(宮津小学校内、現在は正面に移されて修復されている)

太鼓門(裏側から)

大手川沿いに石垣が残る、現在は城壁が建つ

訪問時からは、著しく城郭建築物が復元(復興か?)されているようです。宮津市のホームページで確認しますと、「太鼓門」は小学校の裏門から表門に移築されその廻りには城壁が築かれていますし、大手川の石垣の上には河川改修の際に城壁が復元されているようで、城下町の風情が感じられるようになっているようです。

 

大手川に架かる大手橋

城下に残る武家屋敷長屋門

その他にも遺構があり、京都府与謝郡与謝野町の愛宕神社拝殿が、お城の御殿の唐破風付き玄関であるらしいですが、残念ながら訪問ができていません。

 

次回のブログは、松平家のお城シリーズの最後、島根県浜田市の「浜田城」に参りたいと思います。