一昨日に続き、久松系松平家のお城シリーズで、本日は「刈谷城」(愛知県刈谷市)に足を進めます。

 

久松系松平家のお城と言っても、小諸城の時と同様にほんの一時だけの城主でありました。そしてその藩主松平定政は、三代将軍徳川家光の死後に、突然寛永寺で出家遁世して、領地や居宅など幕府へ一切を返上して、その頃困っていた旗本へ救済する資金に充ててほしいと、変わった行動に出ました。

 

家光死後の四代将軍家綱がまだ少年であったことから、幕府は、その行動が、政情不安を起こしかねないとのことから、その行動は「狂気の沙汰」であるとのことで、領地没収し定政は永久蟄居となりました。

 

「刈谷城」の歴史と城主についてですが、戦国時代には水野家の領地であり、その後関ケ原の戦い後は、水野家を皮切りに藩主が次々替わるお城でありました。深溝松平家、前述の久松松平家、天領地、稲垣家、阿部家、本多家、三浦家と変遷して、そして1740年代にやっと土井家が入封して藩主が定着しました。

 

お城の「縄張り」は、衣ケ浦という入江の東北岸に面して築城され、本丸、二の丸、三の丸がある縄張りになっています。そして、岸とは反対側三方は、堀が巡らされています。大手門は三の丸東側に、本丸には天守閣はなく北西と南東に隅櫓が築かれていました。

 

逢妻川(江戸時代はここまで海)海城だった

 

衣ケ浦側は、現在は逢妻川が迫っています。

 

本丸の隅櫓があった北西側には、十朋亭という大正5年に刈谷藩士族会が建て、昭和47年改築された建物が建っています。

 

また、本丸周辺は土塁で囲まれていて、南東側の隅櫓があった場所には、隅櫓と多門櫓の復元に向けた土塁の櫓台が整備されつつあります。復元完成絵図が、その場に掲出されていますので、非常に期待したいです。

 

北西隅櫓台跡に立つ十朋亭

北西隅櫓台(裏側から臨む、現 十朋亭が建つ)

復元予想の東南隅櫓と多門櫓絵

整備中の東南隅櫓台跡

 

本丸の北側、そして東側には堀が残っていて、赤い橋も架けられていて城域の雰囲気を出しています。本丸の南側は二の丸跡で、市の野球場やグランドが広々と使用されています。

 

本丸北側の内堀

本丸東の内堀

本丸東側内堀

刈谷城跡碑と二の丸跡碑

二の丸一部(現市営球場)

 

三の丸には、色々な遺構が残っていますので、それについては明日記載したいと思います。

 

 

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