本日は、御三家尾張藩の付家老であった二家の内、もう一つの竹腰家のお城を訪問したいと思います。
竹腰家は、成瀬家同様に、尾張藩初代藩主で徳川家康の九男義直に付けられた、家康屈指の臣下の一人でありました。竹腰家は、3万石で今尾城跡に陣屋を構えました。
今尾城は、1400年中盤から後半にかけて中村家のお城でしたが、織田信長に攻められて滅び、その後は、高木家、森寺家、戸倉家と替わり市橋家の時に廃城になりました。そして、徳川領になってからは、竹腰家によって陣屋が構えられました。
今尾城址碑のある今尾小学校
では陣屋とは何でしょうか?
一般的に「陣屋」とは、行政の長である藩主が1万石くらいの場合は、原則、天守閣や櫓のある城郭は持てずに御殿だけしかない構えに住んだ無城大名の居住地を言いました。尾張藩のもう一人の付家老成瀬家は3万5千石で城主でありました。一方の竹腰家は3万石もあったのに、陣屋構えに居住したのはどうしてなんでしょうねー
現在の今尾陣屋ですが、私が訪れて写真撮影したのが、随分昔でしたので、その頃と風情が変化しているかもしれませんが、どうぞお許しください。
陣屋跡は、現在今尾小学校敷地となっていて、校門入ると「今尾城址碑」があります。校門までの道沿いには土塁と高木が立ち並んでいて、当時の姿が残されているようです。周辺には、堀のような痕跡も残っていました。
陣屋跡の今尾小学校敷地
校門までの道沿いにある土塁と高木
陣屋跡周辺
近くの、「西願(さいがん)寺」の山門には、陣屋門が移築されていました。
陣屋門(西願寺山門に移築)表から
陣屋門(西願寺山門に移築)裏から
成瀬家と比べると、だいぶ貧相な感じがしないでもなかったですが、もし陪臣ではなかったら、3万石もあれば、立派な大名であったのですが・・・