昨日は、紀州藩の付家老だった水野家の居城である新宮(しんぐう)城を紹介しました。

 

先日まで、天下普請で建てられたお城の最期を飾り名古屋城を紹介しました。その次に尾張藩の付家老だった成瀬家の居城である犬山城と、竹腰(たけのこし)家の居城であった今尾陣屋へ進むべきだったのですが、和歌山城を先に訪れた為に、後回しとなっていました。

 

ということで、本日は犬山城を巡りたいと思います。

なんといっても、犬山城は、国宝五城の一つであることで有名ですが、実は明治維新後までは江戸幕藩体制下で大名のお城ではなかったのはご存知でしょうか。

 

国宝天守閣と付け櫓

天守閣内

急な階段

地階から一階へ上がった所

犬山城の城主成瀬家は、尾張徳川家の陪臣であり長年、将軍の直臣である大名になれるよう陳情がなされていたようですがそれは叶わず、明治新政府によって諸侯に列したのです。しかし、他藩の付家老と同様に1871年の廃藩置県で、大名としてはクビとなりました。

 

しかし特筆すべきことは、その他のお城では、藩主や城主であった各家は、明治時代になって早々と売却したり地元や役所等への寄付や贈呈を行いましたが、犬山城だけは、つい最近(2004年)まで、この天守閣を自費で旧お殿様であった成瀬家が所有されていましたが、ついに財団法人を作ってそこで運営を任すようになりました。個人で、所有とは、かなり大変なことだったと思います。

 

さて、犬山城の始まりは、古くは室町時代に遡るようでして、織田家のお城でありましたが、戦国時代には、斎藤道三との奪い合いがあったりして、最終的には織田信雄、その他諸将が入城したようです。

 

江戸時代に入り、徳川家康の臣下である平岩親吉が初代藩主となりますが、その後は付家老の成瀬家のお城となりました。

本丸内の弓矢櫓跡

本丸の裏の七曲門跡

木曽川のほとりの90m弱の丘に築かれた平山城で、その佇まいが中国長江流域の白帝城に類似していることから、江戸時代中期の儒学者である荻生徂徠が、「白帝城」と命名したと伝わっています。荻生徂徠は、犬山城を見上げて、余程感動したのでしょう。でも、当時は写真もなく、現地にも行っていないでしょうから、長江と白帝城の絵画から想像したのでしょうねー

 

木曽川のほとりの丘に建つ犬山城

現存の天守閣は、三重四階(地階あり)の望楼型天守で、現在は向って右側に付け櫓を設けていますが、元々はもう片方にも付いていたようで、現在犬山城南側付近の城下でレストランで再使用されているようです。

 

東付櫓(旧O家土蔵、現フレンチレストランで利用)愛知県犬山市

天守閣の他の特徴としては、最上階に付く華頭窓は、実際の窓ではなくて装飾として窓枠が取り付けられているだけです。また高欄が最上階を取り巻いています。一階は、下見板張りの壁、石落としは崖側に一か所あるだけです。

 

城内に残る城郭建築物は、この天守閣だけですが、ここを中心に南側へ曲輪が拡がる梯郭式の縄張りになっていて、各曲輪のメインとなっていた門が、犬山市やその周辺の町に、多数移築されて再利用されています。この再利用されている建物を探し歩くだけでも、非常に楽しめますよ。

天守から臨む復興鉄門と模擬櫓(右側)

本丸から、樅の丸、杉の丸、桐の丸を降りた所にあった「黒門」は、現在礎石が現場に残っていますが、扶桑町にある「徳林寺の山門」にその黒門が再利用され、また松の丸の入口であった「松の丸門」は一宮市の「浄蓮寺山門」に、「松の丸裏門」は犬山市内の「常満寺山門」に、三の丸の入り口の「矢来門」は扶桑町にある「専修院山門」に、「内田門」は犬山市の「瑞泉寺山門」に、それぞれ移築されています。

 

黒門の礎石

以上の門以外にも、城郭建築物の遺構が再利用されており、滋賀県膳所市の膳所城に次いで、再利用されている建物が多いかもしれません。

 

第一黒門(徳林寺山門-愛知県丹羽郡)

松の丸裏門(常満寺山門)愛知県犬山市

矢来門、専修院(愛知県丹羽郡扶桑町)

内田門(瑞泉寺山門、切妻、桟瓦葺き、三間一戸、薬医門形式-犬山市犬山)

松の丸門(浄蓮寺山門-愛知県一宮市)

城門(雲善寺-愛知県一宮市)

犬山城について、もっと色々とご紹介すべき内容はあるかと思いますが、ここまでとさせていただきます。

 

犬山城へは、4回程登城していますが、何せ名古屋単身赴任時代の若かりし頃(といっても40歳前半)でしたので、写真もだいぶ古いものの蔵出し、ご容赦くださいませ!

 

次回は、今尾陣屋です。

 

 


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