昨晩は、和歌山城巡りが終了して、次は御三家の水戸城へ、と宣言しましたが、御三家の付家老のお城紹介を忘れてしまってました。
紀州藩徳川家の付家老は、水野家と安藤家のニ家でありました。そして、水野家のお城は新宮城(和歌山県新宮市)、安藤家のお城は田辺城(和歌山県田辺市)で、それぞれのお家は幕末まで存続し、特に明治維新後には、両家ともに紀州藩から独立した大名として新政府から認められ新宮藩3万5千石、田辺藩3万8千石となりましたが、1871年(明治4年)の廃藩置県で和歌山県に統合されてしまいました。両家ともに、束の間の藩主を味わうことができたようです。
私は、あいにくのところ、田辺城にはまだ訪問することができていないのですが、わずかに水門のみが残っているようです。
一方新宮城は、古くからこの地にお城があり、江戸時代前には堀山氏、桑山氏のお城でしたが、1615年に一国一城の令で廃城となりました。その後、付家老として入った水野家が整備しなおして石垣造りのお城に変貌させました。
登城口から松ノ丸への石段
布積み切り込接(はぎ)の石垣
新宮城へは、私はずいぶん前に訪問しましたが、今写真を見直してみても、すごく立派な石垣づくりのお城であったことを思い出させます。
松ノ丸虎口
曲輪は、大きくわけて、「松ノ丸」「鐘ノ丸」「本丸」「出丸」「水の手」とに分けられており、「松ノ丸」「鐘ノ丸」「本丸」の各曲輪の入り口には立派な切込み接(はぎ)積みの枡形虎口を設けています。
鐘ノ丸虎口
本丸枡形虎口
本丸跡
熊野川沿いには、大きな面積を持つ「水の手」がありますし、本丸からは太平洋を臨める絶景の地でありますので別名「沖見城」とも言われています。
熊野川を臨む
太平洋を臨む
御三家尾張藩の付家老であった成瀬家、竹腰家のお城については、明日から二日かけてご紹介します。