天下普請シリーズでは彦根城まで進み、本日は「福井城」(福井県福井市)をお届けします。

 

「福井城」は、「徳川家康」の次男である「結城秀康」が北ノ庄に入り、天下普請で築城されました。

 

それでは、まず「福井城」の歴史と城主について触れておきましょう。

 

「家康」の次男なのに、なぜ「結城秀康」なのか? 

というのも、「秀康」は「家康」にあまり好かれていなかったこともあり、「豊臣秀吉」との同盟関係を築くべく養子として出されました。しかしその後「秀吉」には、後の「秀頼」が誕生することで、更に「豊臣家」から「結城家」へ養子に出されるという不遇な場面に遭遇しました。

 

しかし「秀康」は、関ケ原の戦い前の「上杉景勝」に対する押さえとして関東に残り、関ケ原の戦いへ「家康」を向かわせることに貢献ができました。

 

そのようなこともあって関ケ原の戦い後、「北ノ庄」へ67万石の恩賞をもって入城し、以降の北陸方面における「大坂方(豊臣方)」への抑えとして「家康」の縄張りで「天下普請」で築城されたのが「福井城」です。

 

そして、1604年には、「結城性」から「松平性」を使用することが許され、晴れて「徳川家」の家門として復活しました。

 

以降は、「秀康系」の子孫(越前松平家)が、代々「福井城」の藩主となり統治します。ただ、「秀康」の嫡男「忠直」は「大坂の陣」の論功行賞に不満を持ち反幕府的な態度を取ったことから1623年にその乱行を理由に豊後大分に流されます。

 

その後に「忠直」の弟「忠昌」が50万石で入城しますが、その後支藩への分封や藩主の発狂による強制隠居処分などで石高を大幅に減らし、32万石で幕末・維新まで続きます。

 

 

お城の「縄張り」ですが、福井平野の南東部を流れる「足羽(あすわ)川」の沖積地に築かれ、方形の「本丸」を中心に、その周囲に「二の丸」、更に「三の丸」が取り巻く「内曲輪」を形成し、その外側には二重の「外曲輪」を配備した「輪郭式」の縄張りとなっています。

 

「足羽川」と「荒川」が外堀の役目を果たし南側からの守りを鉄壁にするとともに、「内曲輪」内では「内堀」を複雑に巡らせています。

 

「本丸」の北西隅に「天守」を置き、他の三隅に艮櫓、巽櫓、坤櫓で固めました。1669年の大火後に、巽櫓と坤櫓は三重櫓に建て直しが行われ、「天守」がその大火で焼失して以来「巽櫓」が天守代用になりました。

 

「大天守」焼失後天守代用となっていた「巽櫓」の古写真

 

「本丸」を中心に北西隅に四重五階の「大天守」と「小天守」がありましたが、前述の通り大火で焼失してしまし、以降は再建はされていません。

 

「大天守」の姿は、「御城下之図」や「御天守絵図」によって描かれていて、初重は二階建て、破風は南面には初重から入母屋破風、比翼千鳥破風、千鳥破風が付き、東面は初重から比翼千鳥破風、入母屋破風、唐破風を付けて非常に豪華さを際立てていました。

 

「大天守」について(現地にて掲出)

 

また、最上階の壁面だけが柱を見せる「真壁造り」を採用し、周囲には「廻縁」を設け、隅部分を交差させて跳ねだす「跳(はね)高欄」によって格式を持たせていました。

 

「大天守台」と「小天守台」は、「本丸」の隅から上げられるのではなくて、少し引いた場所に設けられました。

 

現在は、1848年の福井大地震によって傾いた両「天守台」が残ります。そして、福井の名前の元となった「福の井」

という井戸が残り「井戸屋形」が新調されています。

 

「大天守」の入口

大天守台

「大天守」上の礎石

小天守台(福井地震で傾く)

「福の井」井戸の新しい屋形

 

現在の「本丸」跡は、「御本城橋」を渡った中に、県庁、警察本部、県会議事堂が殆どを占めていてますが、「御本城橋」を渡ったすぐ前には「瓦御門」の石垣を目にすることが出来ます。

 

「御本城橋」と「瓦御門」跡石垣、内部は「本丸」跡で県庁など

「御本城橋」と「瓦御門」跡石垣

「瓦城御門」跡石垣と「結城秀康」像

「本丸」跡内で見られる「笏谷石」の「切込接・布積」石垣

 

また北東には「北不明御門」跡の石垣、「本丸」跡各隅には、「艮櫓」「巽櫓」「坤櫓」の櫓台石垣が残っています。特に、「巽櫓」は、「大天守」焼失後は、三重天守の役割を果たしていたようで、最近の新聞記事では復元が検討されています。

 

「本丸北不明御門

跡石垣

巽櫓台

「巽櫓」の古写真(福井城内の説明文から)

「坤櫓台」

「本丸」跡の「打込接・布積み」は見事

 

そして、「本丸」跡から「二の丸」跡に渡る「廊下門」と「山里口御門」そして「廊下橋」が復元されています。

 

復元「御廊下橋」と復元中の「山里口御門」(現在は完成済)

「山里口御門」と「廊下橋」の完成写真絵図(現地に掲出分)

 

「三の丸」跡北側には、「舎人(とねり)門」の礎石が見つかりその礎石展示と共に、「高麗門」形式の「舎人門」が復元されています。また門脇に有った「石垣」が整備され、東側には「土塁」と「水堀」の復元も行われています。

 

復元「舎人門」

復元「舎人門」脇の修築石垣

復元「舎人門」の東へ延びる土居と堀 

「百間堀」の石垣展示

 

 

「舎人門」から少し離れた東側には、「養浩館」という「池泉回遊式庭園」を持つ「御泉水屋敷」の敷地があり、庭園建築物が復元されていて美しいです。

 

「養浩館(旧御泉水屋敷)庭園」入口

「養浩館」(池泉回遊式庭園を持つ御泉水屋敷)

「養浩館」(池泉回遊式庭園を持つ御泉水屋敷)

 

「福井城」の南西方向の少し離れた「瑞源寺」には、「福井城本丸御殿」の一部が移築されていますので、次回ブログでお届けします。

 

 

 

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