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アウグスティヌスの時間論

 アウグスティヌスはキリスト教神学を確立するために聖書を深く読み解き、そこに書かれていることを己の思索の基礎とした。とはいえ、彼の思想が不合理な宗教的なものに支配されていることはなく、そこには近代以降の思想につながるアイデアが数多く含まれている。そのような中でもっとも興味深いのは、彼の時間論である。それは『告白』の第11章で展開される。アウグスティヌスは、世界は神によって無から創造されたとする聖書の教えを擁護する。この無からの創造はギリシャ人には不可解なものだった。

 ギリシャ人は、宇宙の根源にはカオスのような物質が充満していて、それに神あるいはデミウルゴスが秩序を与えて今日のような世界をつくり上げたと考えた。プラトンが宇宙創造を描いているときにも、原初的な物質に神が形相を付与したということになっている。これに対して、アウグスティヌスは世界が物質から作られたのではなく、無から作られたのだとする聖書に従う。神は秩序や形相だけでなく、物質そのものも無からつくりだした、これがアウグスティヌスの解釈である。すると、厄介な疑問が出てくる。もしそうなら、なぜ世界はもっと昔に作られなかったのか、神が世界の外側にいるのだとすれば、世界創造以前に時間はどのように流れていたのか、といった疑問である。そもそもこの世界を除外して、神の存在がありうるのか。アウグスティヌスは、時間というものは世界が創造されたときに創造されたと考えた。なぜなら、神は時間を超越した存在であり、神にとっては永遠の現在があるだけだからである。神は世界や時間を創造する前から存在していたわけではない。そうだとすれば、神は時間の流れの中にいることになってしまう。そうではなく、神は時間の流れの外側に立っている。時間というものは、人びとが感じるように客観的なものではない。確実に存在した過去とか、絶対に訪れるべき未来とかについて、私たちはそれらがあたかも客観的な存在であるように考えているが、それは実は意識の錯覚に過ぎない。真に存在するものは過去でも未来でもなく、ただ現在だけである、とアウグスティヌスは主張する。にもかかわらず、過去や未来は人間の意識の中に確固として存在している。過去はあったのだし、未来はやってくるに違いないのである。この矛盾を解消するために、アウグスティヌスは過去と未来を現在のこととして考えた。つまり、過去は現在の意識の中で甦ってくる記憶のことであり、未来は現在の意識の中の予期と同じものである。このようにアウグスティヌスは時間を人間の主観的な意識の時間として捉え直したのである。これこそ彼が現代的だと見做されている具体的な理由の一つである。

 アウグスティヌスが時間について現代的な考えをもっていたことは、次の二つのよく似た問いを比較すれば一目瞭然である。

 

 神は世界をつくる以前に何をしていたか。

 ビッグ・バン以前に何が起こったか。

 

最初の問いに対するアウグスティヌスの解答は、二番目の問いに対する現代の物理学者の解答に極めてよく似ている。時間は神が世界をつくる際、あるいはビッグ・バンで世界が生まれる際に始まったので、それ「以前」というのはそもそも存在さえしない。だから、上の二つの問は意味をなさない。これが両者に共通する答えである。問いとそれらが出された状況は異なっていても、両者の解答は何とよく似ていることだろう。

 アウグスティヌスが直面した問題は神による世界の創造を説明することだった。神とその創造については次のような三つの主張がある。

 

神は永遠である。

神は恣意的でない。

神はある時点で世界を造った。

 

これら主張の二つから残りの一つの主張の否定が導き出されてしまう。(1)と(2)からは創造された世界が永遠で、したがって、(3)は誤りになる。(2)と(3)からは神が永遠ではないことが導き出され、したがって、(1)に反することになる。((1)と(3)からは何が出てくるだろうか。)これでは神の創造を説明できないことになってしまう。アウグスティヌスは時間についての独特の考察によってこれを整合的に説明しようとする。彼は神がある時点で世界を造ったことを否定する。神は時間の中に存在しているのではないから、ある時点で何かを行なうということはないと彼は考える。そうではなく、世界を造る際に時間も一緒に造ったのである。時間は時間の中に存在する人間にだけ属する。神はすべてのものをそれらが現存しているかのように観ている。すべてのものは神の眼には過去や未来をもっていない。だが、私たちの時間的な見方では、すべての出来事は時間の経過の中で起こるものとして映っている。

 アウグスティヌスは時間の三つの区分、つまり、三つの時制(tense)を「存在」という概念を使って定義する。

 

過去は既に存在していないものである。

現在は今存在しているものである。

未来はまだ存在していないものである。

(これらの定義の「既に」、「今」、「まだ」は時間を仮定していないのか。)

 

アウグスティヌスはこれらの定義を心理的なものと考える。過去は記憶の働きにより、現在は注意の働きにより、未来は期待の働きによって、私たちに経験される。時間はそもそも存在せず、神はこれらの働きをもつ人間をつくることによって、時間をつくったのである。

「時間とは何か」という問いは「Xは何であるか」というソクラテス的な問いの一つであるが、この問いに対してアウグスティヌスは次のように答える。それは何かと問われなければ何かはわかっているが、問われて説明しようとするとわからなくなる。とはいえ、時間には過去、現在、未来があることを私たちは知っている。この時間の区別(=時制)を考え出すと、時間のもつ特異な性質が浮かび上がってくる。『告白』Book XI にはアウグスティヌスの時間論が展開されている。過去や未来は存在しない。というのも、過去は過ぎ去ってしまったもので、未来はまだ来ていないものだからである。過去も未来も存在しないなら、現在は過ぎ去ることなくいつも現在であり、それは永遠であることを意味している。それゆえ、現在だけでは時間を十分に特徴づけることはできない。そこで、アウグスティヌスは時間がどのくらい続くかを考える。出来事や時間間隔が短い、長いというとき、そのように言うことによって何が述べられているのか。過去や未来が長い、短いはそれが存在できる現在のとき、長い、短いと考えられる。だが、明らかに現在は延長をもっておらず、瞬間でしかない。過去も未来も存在せず、現在は瞬間であるとすれば、「何かが起こっている」とか「何かが起こるだろう」ということについて私たちが話しているとき、一体何が話されているのか。これにどう答えてよいかわからなくなる。だが、アウグスティヌスは過去や未来の話をすべて現在の話に還元しようとする。つまり、過去や未来についての主張が真や偽であるのは、過去の記憶や未来の期待についての現在の主張が真か偽であることと同じだと考える。

 

トマス・アクィナスとスコラ哲学

 トマス・アクィナス(1225-1274)は中世最大のスコラ哲学者であり、キリスト教神学の完成者である。その業績は神の存在証明を中核として、神学、哲学、倫理学、自然学にわたり、中世の知識のあらゆる領域をカバーし、カトリック的世界観を壮大な規模で展開した。スコラ哲学は19世紀から20世紀にかけてカトリック神学界を中心に復活を果たしたが、その骨格はトマス・アクィナスが築き上げたものである。

 トマス・アクィナスは神の存在証明を5通り(「5つの道」と呼ばれる)示したが、その証明の一つを見てみよう。

 

[証明]

前提1:動くものがある。

前提2:動くものは他のものによって動かされる。

それゆえ、何かを動かすものがそれ自身動くなら、それは第3のものによって動かされなければならない。

それゆえ、動かすものの無限の系列があったなら、最初に動かすものはなく、動かすものは全くなくなるだろう。

それゆえ、動かすものの無限の系列はあり得ない。

結論:最初の自らは動かないで、動かすものがある。

 

 この証明が正しいなら、結論に登場する最初の動者という性質をもつものがあることになり、運動の第一原因としての神の性質が証明されたことになる。一見すると反論するのは難しいように見える。動者の系列を辿っていくと最初のものに行き着き、それは最初のものであるために他のものから動かされることがない。動かされるなら、最初のものではなくなるからである。「動かすものの無限の系列があったなら、最初に動かすものはなく、動かすものは全くなくなるだろう」という文がこれに対応している。この文が正しいなら、上の証明は前提を認める限り成立する。

 ここで、無限についての知識を活用しよう。私たちは自然数や実数が無限個あることを知っている。そこで、まず自然数を考えて、各自然数が動者に対応しているとしてみよう。動くものをnにして、それを動かすものをn1、さらにそれを動かすものをn2という風に、次第に遡及して行ってみよう。すると、最後に0に到達し、それ以上は遡及できない。この0が不動の動者に対応する。これが私たちに反論が難しいという印象を与えていたものであろう。だが、ある自然数nから遡及するのではなく、n1を動かすもの、そしてそれを動かすものをn2という風に考えて行くとどうなるだろうか。すると、いつまで立っても最終の到達点はない。というのも、自然数は無限だからである。自然数の系列をこのように解釈するなら、これはアキナスの証明に対する反例となる。

 さらに、適当な正の実数を考え、その実数から次第に0に近づく実数の系列を想像してみよう。0から1までの線分が格好の例となる。0から1まで実数が連続して並んでいる。線分内の個々の実数が動者であると仮定して、上の証明を当てはめてみよう。0から1までは無限の系列であるが、明らかに最初のものが存在する。それは0である。これは「動かすものの無限の系列があったなら、最初に動かすものはなく、動かすものは全くなくなるだろう」という文に対する反例となっている。したがって、この文は正しくなく、この文を含む証明全体も正しくないということになる。閉区間 [0, 1] には確かに0という出発点がある。これは出発点を保証して、かつ無限の動者の系列をつくれることを意味している。この点で、結果としてアキナスの証明を補強するのに使うことができる。一歩一歩では到達できないが、出発点は存在する場合があるのである。だが、半開区間 (0, 1]を考えたらどうなるか。0はこの区間に含まれないので、この半開区間に出発点はない。aが出発点なら、a/2が存在して、それはaより小さくなってしまい、aは出発点ではなくなってしまう。無限の系列は存在し、動者を遡っていくことができるにもかかわらず、最初の動者、つまりは第一原因には到達できないのである。これも別の意味で「動かすものの無限の系列があったなら、最初に動かすものはなく、動かすものは全くなくなるだろう」という文の反例となっている。

 このように現在の私たちは簡単に証明の誤りを指摘できるが、それが可能なのは「無限」概念を使っているからである。無限が承認できないのであれば、このように簡単に処理することはできない。無限の承認の是非が二つの時代(アクィナスと私たち)を分けている。

 トマス・アクィナスは普遍の認識については実在論の立場に立っていた。個別的な事象を超えた普遍的なものについて、それが単に名称に過ぎず、それ自体としては存在しないとする唯名論に対して、普遍は個別の中に実在するという立場をとった。

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