読書感想文 #48 冤罪と人類 | 故ヴログ

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『冤罪と人類ー道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』 菅賀江留郎

 

 

ずっと休んでいたが、今年は読書感想文を再開することにした。読んだ本全部できるかはわからないが、アウトプットすることによって自分の理解度が計れるし、しょうもない感想文になればほとんど字面を追っただけの読書だったのだとわかる。

 

タイトルにあるように本書のテーマは冤罪だ。特に「拷問王」と呼ばれ複数の冤罪事件を作り出した紅林麻雄(くればやしあさお)刑事と、二俣事件で冤罪を告発した結果「妄想性痴呆症」なる診断まで下されて警察官を辞する羽目になった山崎兵八(-ひょうはち)という、2人の刑事を登場させるところからスタートする。

 

紅林刑事については解説しているYouTubeやブログも多く、おおまかに何をやった人かというのはご存じの方も多いだろう。そのほとんどは無辜の民を拷問して自白をさせ、殺人犯の汚名を着せた「とんでもない奴」という印象を持たれているかと思う。

本書の試みはまず、その「とんでもない奴」が生まれた経緯を、本人の人となりから、当時の国情、とりわけ内務省と司法省の権力闘争まで掘り下げることで探り出している。

その章を読んだ時に私はふと、旧石器時代の遺跡を捏造し続けて「ゴッドハンド」と呼ばれた藤村新一のことを思い出した。(知らない方は「藤村新一」で検索してみてほしい)

期待と称賛が人の行動を変えてしまうということは確かにあると思う。紅林刑事が作られたヒーローとしての重圧に応えるために、冤罪を作ってでも名刑事を演じていたのだ、だから彼も犠牲者だなどと言う気はないし、著者もそんな短絡な話はしていない。

むしろここまでは序章のようなもので、本書の真価はその先にある。

 

特に多くの紙幅が割かれている吉川澄一(-ちょういち)技師についての章は、我々があらゆる物事を見る目について応用できる話が書かれているので、ぶっちゃけそこのためだけに本書を買ってもいいくらいだ。

吉川技師という稀有な天才を手本に、「認知バイアス」を排除してありのままにものを見ること、想像力を働かせる前にまず正確な事実を可能な限り追究する姿勢の重要性が説かれている。それは単に冤罪を防ぐためにとどまらず、歴史を見る目にも応用できる。

そもそも人間とは知識や情報を集積していって成長する生き物でもある。認知バイアスとは言い換えれば過去の経験に基づいて思考をショートカットさせる機能とも言える。それを排除することは容易ではないし、できたとして過去の知恵を全く活かさないのでは馬鹿になることと同義になってしまう。

吉川技師は、馬鹿にならずに物事をありのままに見る目を持った稀有な人物だったようだ。彼が捜査に加わっていれば二俣事件は冤罪にならなかった可能性は高い。

 

弁護団の一員として二俣事件で再審無罪を勝ち取った清瀬一郎の章も大変に興味深い。ちなみに彼は同じく紅林刑事主導の捜査で冤罪がかけられた「幸浦事件」の弁護でも無罪を勝ち取っている。

戦後は日本弁護士協会の会長として拷問根絶に尽力した人物でもある人権派だが、面白い(?)ことにこの人は極東裁判では満洲事変に始まる日本の戦争は自衛のためのものだったと弁論を振るい、A級戦犯を守るために尽力している。

また政治家でもあり、60年安保闘争においては衆議院議長として安保条約の強行採決を実行した人物でもある。

なんだか結びつきづらい経歴を持った人だが、彼こそは認知バイアスが人を誤らせる好例として挙げられるだろう。二俣事件や幸浦事件の弁護士としてのエピソードを聞いて、極東裁判の弁護士や政治家としての彼を想起できる人はまずいないだろうし、その逆も然りである。

著者が参照した膨大な資料の中でも、清瀬一郎の政治家としての功績と弁護士としての功績を併記したものは皆無だったようである。およそレッテル貼りを好む人間には理解し難い二面性を持った人物だ。

 

先入観を持たずに物事を見るというのは言うほど簡単なことではない。認知バイアスは特に穿った見方をしようとせずとも作動する無意識の機能だからだ。

「拷問王」とまで呼ばれた紅林刑事にしても、丹念に資料を読み込めば面倒見がよくて正義感の強い人物だったことがわかる。

「そんな人物が何故あのような酷いことを?」という疑問に答えるために、本書はかなり分厚い内容になってしまっているが、読んでみればそれも致し方ないことだと納得できる。特にこういった過去の事例を解き明かす作業は、膨大な事実の積み重ねがものを言うのだということを嫌という程わからせてくれる。

帯には「人間の思考を起動させる本」とあるが、大変なのは起動してからだ。

 

このブログで『雑想メモ』を書き始めた時、私は知識は肉体における筋肉に相当し、思考や洞察が肉体をどう運用するかに相当するというようなことを書いた。その持論は今も変わっていない。

ただこの本を読んで少し認識を改めた。

人が素の状態で持っている筋力というのは末期患者や寿命を迎えんとしている老人のそれ程度しかないということだ。「より速く走るには」「より高く跳ぶには」などということを考える前に、自分の力で立ち上がる筋力すら備えていないのでは話にならない。

だが今は便利な時代で、表層的な知識ならいくらでも簡単に手に入る。己の足で歩くこともできない人間が、偏狭な知を暴力にする様を多く目にする。陰謀論に毒される人間が多いのはまさに時代を反映した事象なのかなと思う。

 

知識は思考の苗床だ。苗が駄目ではロクな思考が生まれない。(ただし創造的思考に関してはその限りではないと思う)

最後に筆者があとがきに書いた一説を引用して締めようと思う。

 

過去の情報を蓄積していくのが文明の基礎であり、その一翼を担ってこそ初めて文明社会の一員であると云えます。

うっかり本書を手に取ってしまった読者諸氏の責務は、かくも重大なのであります。

読書とは物事を構築していく作業であって、そこになにかしら継ぎ足すことができないのであれば、それは読者ではなくたんなる消費者にしか過ぎないということなのです。