夜汽車の汽笛への憧情 -141ページ目

テールランプも

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テールランプも
点くようになった。スペースの都合でチップLEDを使ったのだが、やや明るすぎたかも。遮光などまだ課題も多い。


点いた!

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点いた!
組立中のクモハ40。
試行錯誤の上ようやくライトをつけることができた。

室内灯とヘッドライトは自作。外からライトユニットが目立たないようにするのに苦心したが、頑張ったかいがあったかな。

さて、残るは表記類とテールランプ、運転台仕切りか。もう一息だな。


旧型客車と旧型国電。

旧型客車と旧型国電。
どちらも昭和30年代以前に誕生した車両だが、今の車両にない大らかさと奥深さがある。そんなところに惹かれるのかもしれないな。
そう言えば、旧型気動車って言葉はあまり聞かないなぁ。機械式以前の型式は旧型気動車と言っていいとおもうが。

もっとも、今となっては国鉄型自体旧型なんちゃらと言って良いような気もするが。


スマホからシンプログなるものを投下してみる。アメ版のツイッターみたいなものか。

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スマホからシンプログなるものを投下してみる。アメ版のツイッターみたいなものか。


青梅線にいた旧型電車の記憶(その1)

私は中学校2年生まで青梅市に住んでいた。
そんなわけで一番身近な鉄道は国鉄(現JR東日本)青梅線だった。
私はモノ心付いた頃から鉄道好きだったのだが、幼稚園の年長クラスあたりからは電車の線路が見えるマンションに住んでいたので、青梅線の電車をよく観察していたものだった。

線路の見えるマンションに引っ越した当時青梅線はこげ茶色の旧型電車がメインで、所謂「新性能電車」は一時間に一本程度中央線から乗り入れてくるオレンジ色の101系くらいだった。
なお、こげ茶色でデッキ付き旧型電気機関車ED16が牽く貨物列車も走っていた。

さて、このメインの旧型電車こそ、自分が「でんしゃが好きなおとこのこ」から鉄道ヲタに変化するまでのきっかけを与えた車両たちである。
私は幼稚園生のくせに華やかな101系より旧型電車のほうが好きだった。
チョコレートを思わせる色に無骨なスタイル。雄雄しいツリカケ駆動のモーター音に父親を思わせる頼もしさを感じていたのだと思う。
余談だが、それに比べて時折やってくる101系の華やかなオレンジ色と甲高いモーター音はどこか女性的な感じで、なんとなく頼りないような感じがしたものだった。

青梅線の旧型電車のメインだったのは72・73系電車だった。
72・73系は戦後生まれの20m4扉の通勤電車で、戦時型の63形と戦後製造されたその改良型からなる。
戦後の復興とともに改良なされてスタイルに変化が出た他、一部の車両には車体新製を伴う更新工事等もなされ、同じ系列内でも形態のバリエーションが豊富で、その細かい違いを見つけるのが楽しみの一つだった。
さらに、朝夕を中心に増結用車両としてクモハ40形が走っていた。
クモハ40は戦前に製造された両運転台の電車で、大抵は一番立川寄りに連結され、リベットのまとわりついたその姿は古武者のような威厳と独特の存在感を漂わせていたものだった。

家の部屋の窓からこれらの電車が通り過ぎるのを見るたびに目を輝かせてみていたものだった。


そんな魅力的な電車たちだったが、寄る年波にはかなわず、昭和51年以降に103系が京浜東北線から転用されてきて、少しずつ数を減らしていくことになる。
昭和52年以降はついに朝夕ラッシュ専用となり、昭和53年の春に青梅線から去っていった。

ツリカケとは違ったドスの効いた低音が響く103系はすぐに好きになったが、やがり旧型電車がみられなくなったのは寂しいものだった。

(多分つづく)

TOMIX DD51-500 改造計画について考察

TomixのDD51形500番台を奥羽線仕様にするにあたって考察してみる。

・ナンバーについて。

679にするか680にするか迷い中。各々の車暦をおいかけてみると・・

679の場合、昭和44年に秋田に新製配備された後、秋田~青森電化後の昭和47年に山形へ移籍。昭和50年の奥羽線全線電化に伴い北海道の岩見沢に移るも、昭和53年頃に東北に戻り釜石に配備。北上線等で活躍しつつ、その後郡山へ移り、磐越東線等で活躍して昭和62年2月に廃車。
 この場合、急行津軽、おが、特急日本海、あけぼの等に使えるほか、厳密にはタイプが異なるものの東北地方のローカル列車、特に磐越東線は我が家に在籍するオハ61やスハフ32との競演が実際にあった組み合わせを再現することが可能になる。
しかし、679号機の奥羽本線時代の写真がなく実際の細かい仕様(プロテクタやタブレットキャッチャの有無)が推定となるうえ、特急・急行列車を牽引したエビデンスがない。
また、ナンバープレートはプラシートで作成するか、製品のナンバーを全部削る必要がある。

680の場合、昭和44年から50年までは679に同じ。その後北海道に移るが、こちらは北見と旭川をいったりきたりしつつ、昭和61年3月に廃車。
 この場合、特急日本海を牽引した写真が実際にいくつもWeb上で確認できる(つまり、外観上の細かい仕様が確認可能)ほか、それ自体が優等列車牽引のエビデンスになる。さらに急行津軽を牽引した記録も残っている。
また、ナンバープレートは製品付属の690号機の9の文字を表面だけ削り、そこだけインレタを上から張という技が使える。
ただし、北海道での運用が長いため、厳密な意味での我が家で牽引できるの列車の数は限られる。

上記から考えると、679にしても釜石以降についてはタブレットキャッチャーやプロテクタなどの装備(細かくは後述)が正規のタイプではないため、いまのところ680にするのがやや有力か。

・所属区名について
銀河モデルのN-507区名ステッカーを購入している。
奥羽・羽越線系統の優等列車牽引を目的とすることから、秋田または山形にする予定である。
秋田の場合上記の列車ほぼすべてOKではあるが、特急日本海の場合、秋田機関区の担当した秋田~青森間では昭和44年10月改正以降編成両数増加に重連となっており、もう1台DD51が欲しくなってまうという重大な罠があるw

山形にした場合、679,680とも奥羽南線用となっており特急日本海は牽引していないが、昭和46年10月~昭和50年10月と、秋田時代より若干長い。
さらにいえば、我が家の急行用客車は昭和45年以降の表記になっており、客車とのマッチング期間も長い。ただし、「おが」「津軽」ともこの期間に編成の変更はなく、編成バリエーションという意味では乏しいようだ。

どちらにするかは正直今のところ五分五分。

・ナンバー色について
どうやら車体側面のナンバーは地は製品どおりの白ではなく、区名差しの部分を含め朱色だったようだ。よって側面用のナンバーパーツは塗装が必要になる。
なお、679は北海道時代に白いものに変更された模様。

・タブレットキャッチャー
少なくとも680は奥羽線時代はタブレットキャッチャー未装備。北海道時代には取り付けていた模様。
北海道時代以降タブレットキャッチャーをつけているのを確認している。
奥羽線は自動閉塞を取り入れていたためタブレットがなく、キャッチャーがないのは不自然ではないのだが、プロテクターのみ取り付けてタブレットキャッチャーがないというのは奇妙に感じなくもない。おそらく将来の転配を考慮したものだろう。
679については奥羽線時代は未確認。釜石配備以降、タブレット閉塞使用線区で活躍したため、タブレットキャッチャーが確認できる。
また、釜石時代は前面窓にもツララ切り兼用のプロテクタを装備しており、よりイカツイ外観になっている。これはこれで魅力的ではある。


TOMIXのDD51をいじる

我が家の模型にはディーゼル機関車DD51が在籍している。
DD51というのは昭和37に登場した幹線向けのディーゼル機関車で、蒸気機関車の置き換えを主目的として登場した2000psの出力を誇る機関車である。
その性能のバランスのよさから多数製造され、非電化区間で旅客列車・貨物列車に活躍した。

さて、我が家のDD51はTOMIX製で、500番台と呼ばれるグループである。
元々山陰地区の列車用として導入したのだが後でよく調べたところ、DF50やDD54が活躍していた山陰地区でDD51が活躍したのはだいぶ後のことで、実際に多用されたのは1000番以降の車両であり、500番台が活躍したのはほんの一時期だったようだ。

そして、TOMIXの製品として用意されていたナンバーのなかで山陰でも活躍した車両は、692号機のみだったので692の番号をつけたのだが、コレも調べてみると昭和44年に製造されて千葉の佐倉機関区に配属されたあとは、ひたすら総武線の貨物で活躍し、米子に移ったのは旧型客車の急行が消えた昭和58年以降であった。
その後一応山陰本線で旧型客車の普通列車は牽引しているようなのだが、東日本の旧客急行をメインとしている自分としてはイマイチ使いどころが外れてしまう。
いや、拘らなければ全然問題はないはずなのだが、変に知ってしまったが故のジレンマである。

そこで、機関車の整備を兼ねて用途の変更を画策することにした。
方針としては以下のようにする。

・国鉄時代のDD51によくみられたタブレットから車体を保護するためのプロテクタの装着。
・タブレット保護板の設置
ここまでは実車の692号機でも行われていたものである。

・ホイッスルを暖地向けのカバーなしのものから寒冷地向けのカバーつきに変更
・窓ガラスのワイパーを削除し、旋回窓を設置
・ナンバーを692から679へ変更。

こうすることで、寒冷地型に変更し、秋田機関区や山形機関区に配置され、「日本海」や「あけぼの」、「津軽」「おが」などに活躍したカマに変更できるというわけである。

今日はそのうちの第一弾である、プロテクタの設置を行ってみた。

これが加工前の姿である。
典型的な幹線用の暖地向けで、プロテクタもなく前面窓もワイパーになっている。

そこで、銀河モデルのN250 DD51形プロテクタセットを利用すると・・・・


こんな感じである。
プロテクタがゴツくてかっこいいw
なお、カプラーもアーノルトカプラからTNカプラおよびカトーカプワー化することにしたため、実感的な外観を持つTNカプラに変更してみた。
反対サイドは別のカプラーを装備する予定である。


アップにしてみるとこんな感じ。
いかめしいプロテクタは非常に存在感がある。
これぞDD51という感じがする。


客車を牽引させてみた。
なかなか絵になっている(自画自賛)

今後も改造してさらにゴツイ雰囲気になるのが楽しみだ。


スハ44完成

今年の始め頃からレボリューションファクトリー製のスハ44近代化改造車のキットを組んでいたが、約半年かかってようやく完成した。

スハ44について軽く解説すると、昭和26年に特急つばめ・はと用として登場した特急用三等客車で、座席は一方向を向いたロマンスシートになっている。
車体は完全切妻構造で、基本的にはスハ43と同一の構造になっている。
窓は座席に対して1つ用意されたため、小窓がズラリと並んでいるのが外観上の特徴である。
特急用として誕生したため、三等車(現在で言う普通車)ながら初めてデッキが1箇所になった。
その後特急「かもめ」「はつかり」にも使用されたが、昭和35年~36年かけてに昼行特急列車がすべて気動車や電車に置き換わったため、特急の任から外されて主に団体用や急行用に使用されるようになった。
室内は登場当時主流だったニス塗りで白熱灯だったが、急行用に転用する過程で気動車や電車の特急用車両に比べ見劣りがするため、近代化改造を受けることになった。
このうち近代化改造第一陣(スハ44 1~8および9~19を改造したスハフ43形10番台)では窓サッシをアルミサッシに取り替えたほかドアも10系客車同様のサッシ付きに交換。車内は薄緑色の化粧版が使用され、照明も直管式の蛍光灯に変更。また、一方向のシートは運用に支障があることから、転換可能な構造に変更されている。
なお、近代化第二陣では経費節減のため窓枠は木枠のままで室内は薄緑のペンキ塗装、照明は元の白熱灯台座を利用した、円環状の蛍光灯になっている。ドアはプレスドアのままとなったが、大半は後年窓をHゴム固定とした鋼板ドアになっている。これらが外観上の差異となっている。

いずれも晩年は関西と九州に配置され、主に急行「銀河」のほか、関西から九州方面の急行列車に使用された。


さて、いつもであれば、早ければ2週間。遅くとも3ヶ月くらいで完成していたのだが、リアル多忙による作業時間の減少に加え、
今回から自作の室内灯を装備することにしたため、余計に時間がかかった。
とくに、グリーンマックスのキットをベースにしたコンバージョンキットの場合、これまでの工法では室内灯組み込みを考慮していなかったうえ、
今回のスハ44も途中までは組み込みを行わないことを前提に作っていたため、作成方針の変更を強いられたうえ、色々な制限を受けることになった。
その途上で作業ミスにより塗装を一部やり直しせざるを得なくなったり、内装の一部をハンダで溶かしてしまい再作成を余儀なくされたりもした。

このような室内灯取り付けが想定外のキットであったことと、室内灯自体を自作したこともあり、様々な試行錯誤を行うことになった。
「できるだけライトユニットや配線を目立たせずに、しかも集電を安定させ、さらに実装を容易にする方法」を模索したのだが、スハ44は窓が多く死角になる箇所が極端に少ないため、その点でも苦労することになった。
特に旧型客車というのは1両単位でバラバラに留置されることも多く、中間に挟まれる客車でも貫通路側から眺めることも多い。
そうかんがえるとKATO製品のようにデッキや貫通路がライトユニットで埋まっているというのはどうにも無粋な気がしてならない。
また、TOMIXやMicroAce製品のように集電用のバネが車内を堂々と貫いているのもどうにもかっこよくない。折角の自作なのだから、このあたりは手間をかけても工夫を凝らしてみたかったのである。

そこで取り入れたのが写真のような方法である。
回路としてはブリッジダイオードを通して電流を整流した後、CRDで電流を制限してLEDに光を流すというものになる。さらにLEDと並列にコンデンサを入れることでTOMIX等のPWM方式を使用しているコントローラでは常点灯とすることが可能になっている。
しかしながら、ブリッジダイオードの素子は一般的に大きく、車両内に収めるには工夫が必要になってくる。
写真中の黒い四角の素子がブリッジダイオードだが、これにはD1UBA80というものを使用している。これは非常に小さいの上に80V1Aまでの許容量をもつのが特徴で、本来は面実装用の素子である。
CRDには15mAのものを使用している。これは屋根右側の白い部分に接続してあるのだが、絶縁のため
コンデンサには3216サイズのチップコンデンサを使用している。容量は10μFである。
旧型客車は屋根が深いため屋根のふくらみのなかに十分に収まるのがポイントで、
電極となる銅板により集電を行うが、トイレ側の車端部に持ってくることで比較的目立たないものになっている。
接触を確保するために、2mm程度の幅を持たせ、弾力のある青燐銅板とすることでバネ作用を持たせている。
メンテを考慮して屋根・床下双方が外せる構造であるため、接触を確保するためにやや妥協をせざるを得なかったが、さらに電極を目立たせないためには、屋根を車体に固定するのであれば、銅板の上にプラスチックの化粧版を乗せるのもいい方法だろう。

LED自身も何種類か試して納得のいく光り方を試すことになった。
今回は「夕庵式」(導光材にプラパイプを用いる方法。光りムラが少なく、車内を比較的均等に照らすことができる)と呼ばれる方法を、この方式を考案した夕庵氏に感謝しつつアレンジしたのだが、LEDの素子によっては暗すぎたり、
明るさは十分でも照射角の都合か色ムラが出たりなどで、なかなかうまくいかなかった。
特に7000~10000mcdで照射角30度程度のものを2個ほど試したのだが、いずれもパイプの途中から光の色が黄色くなる現象が現れた。おそらくだが、導光材のプリズム中で光の回折が起きて、特定周波数の光が抜けるなり強調されるなりしているのだと思われる。
最終的にはスハ44の場合日亜化学製のNSPW310DSに落ち着いたのだが、これは若干高価であるのが難点だ。
ちなみに、夕庵式オリジナルで使用しているのは日亜化学製のNSPW300DSである。照射角度は25度だがmcd値が非常に高い。半ば「力押し」ともいえるが、確かに光りムラも色ムラもないようだ。
今回使用したNSPW310DSはその広角照射版で、mcd値は6000cd程度だが照射角は50度ほどになる。十分明るく、色ムラは発生していない。照射角が60度でOptsupply製のOSWT3166B(秋月電子で販売している激安品。価格は魅力だが青みが強く暗いのが難点。)でも発生しないので、おそらく特定の照射角と棒の長さのと光の波長が関連しているものと思われる。
しかし、今後実装する両数を考えると、すべてにコレを使うのはやや経済面で問題があるように思える。

また、屋根からの光漏れを抑えるためにも色々と対応方法を考えなければならなかった。
本来であれば車体と屋根を接着してしまい、隙間はパテ埋めすれば大丈夫なわけであるが、床板止めの都合上、
内装を屋根側から入れる設計としたために、どうしても屋根は取り外せる構造にしなければならなかった。
光漏れについては工夫の上許容範囲には入ったものの、残念ながら完全には抑えられていない。
今後キットを組む際はこのあたりも考慮した設計にする必要があるようだ。

今回のスハ44はベースがGreenMaxキットであるので、線路からの集電も対応されていない。
そこで、集電化対応をするため、どこかのWebサイトで実践されていた方法をありがたく使わせていただくことにした。

写真でわかるとおりセンターピンに穴を開け、電線を通すというシンプルな方法である。
電線を車軸に巻くことで転がり抵抗を少なく集電を行っている。
さらに電線にスズメッキ銅線を使用しているところがオリジナルで、これによって転がりを改善している。ここで銅線を車軸に強く巻き過ぎないこともポイントになる。
室内側はセンターピン上に銅板を置き、電線とハンダ付けをしてある。こうすることで接触面積を稼ごうという魂胆である。
床板上に青燐銅板をセンターピンを覆うように置き、センターピン上の銅板と接触させることで回路を形成しているわけである。
センターピンの銅板にハンダを盛って床板より盛り上がるようにしておけば、
内装の椅子板で上から床板上の銅板を押さえつける形になっているので、 接触については問題はない。
絶縁側の車輪からの集電を行わないので4輪集電となり、KATOの8輪集電には及ばないものの、車輪とレールを綺麗にすることで安定した集電が確保できる。




ライトを点灯させるとこのとおり。
明るい場所でも自作の内装が照らし出されて青いシートや洗面台がよく見える。
実車より明るすぎるかもしれないが、模型なので丁度いいのかもしれない。
このあたりは今後ポリシーも含めて要調整となろう。

暗い場所ではこのとおり。室内が明るく照らされ、仕切り板の緑もはっきり見える。
トイレのドアもスリガラス越しにうっすら見えるのが面白い。
屋根の光り漏れは今後改良の余地があるといったところだろう。

貫通路から見たデッキ部分。
LEDとは反対側の車端になるが明るく照らされている。これだけの明るさがあれば十分だ。

このスハ44は我が家では主に急行「銀河」用として使用する予定で、ナンバーは宮原に近代化改造第一陣の中では最後まで所属した6番になっている。
所属表記は大ミハである。
寝台車も早いところ室内灯を整備して、車内の明るい夜行列車を再現したいところだ。

地味に新導入

我が家には既にスロ62が2両在籍しているが、スロフ62が我が家に登場。
我が家としては地味な新形式である。



スロ62、スロフ62について軽く解説すると、昭和34年に余剰になっていたオハ61を改造して登場したオロ61・オロフ61を冷房改造した車両である。
室内はリクライニングシートが1270mmピッチでゆったりと並び、定員は44名となっている。

スロフ62はスロ62の緩急設備付き版で、通常のスロ62に比べて、車掌室と手ブレーキ装置、テールランプが付いているところが異なっている。
実車ではスロ62を改造したものと、オロフ61を冷房化したものがある。

スロ62・スロフ62とも主に東北方面の急行列車用として長く活躍したが、老朽化や客車列車の減少により、お座敷客車スロ81、スロフ81に改造されたものを除き、昭和58頃までに形式消滅している。

さて、今回導入したスロフ62は、KATOから急行「津軽」セットで登場したAssy組み立て品である。
高価なキングス製品を組み立てようという野望もあったのだが、安い完成品で出たからには特に買わない理由はない。
KATO製の完成品はなんだかんだで安くてよくできているのである。
残念ながらテールライトは準備工事だが、スハフ42のテールライトユニットを組み込むことで点灯可能な構造になっている。


こちらはKATO製のスロ62。
今回導入のスロフ62とはテールライトの有無のほか、屋根の色が異なっている。
実車は冷房化された直後の昭和40年代前半には銀色の屋根となっていたが、その後保守の省力化や汚れなどにより晩年は今回導入のスロフのように灰色になっているものが多く見られた。
つまり、スロ62は昭和40年代の姿、スロフ62は昭和50年代の姿といえるだろうか。



製品のほうでは上の写真のとおり、スロ62(右側)が中間連結であるのを前提にデッキ仕切り表現を省略しているのに対し、スロフ62(左側)は編成末尾に連結することを考慮してデッキ仕切りが表現されているのがわかる。

スロ62、スロフ62ともウインドシル・ヘッダーのついた旧式車両然とした部分と、アルミサッシや冷房装置のついた低い屋根のついた近代的な部分が入り混じってなかなか魅惑的なスタイルとなっている。

なお、スロフ62は我が家でも主に急行「津軽」用として活躍する予定である。
我が家の「津軽」編成はKATOからセット化されるまえからあったのだが、スロフ62はスロ62での代用となっていた。
今回晴れて正規の編成となるわけである。

583系整備中

最近夜行列車用の客車を対象に自作の室内灯組み込みを始めているのだが、その一環で583系にも室内灯を組み込むことにした。
それに先だってエヌ小屋と言うメーカーからの発売されている内装シートを試用も兼ねて貼り付けている。
と言うのも、製品のままの内装はプラ成形色のままで味気ないものになっており、自作車両との差が室内灯を組み込むことで余計に目立つからである。
無論自作のパーツでドレスアップを図ってもよいのだが、完成品車両は台数も多く、さすがに全部自作すると工数がかかりすぎてしまうため、手軽かつ効果的にできる方法を考えたらこういう選択肢があったと言うわけだ。
幸いにしてエヌ小屋の内装シートは比較的安価で入手性も良い。

ところで、我が家の583系は内装の前に外装(行先方向幕や種別サボ)が付いてない状態だったので、先ずはそこから整備している。
KATO製の583系はそのままでも十分に魅力的なのだが、行先やサボを着けることで車両が生き生きして来るように見えるのだから不思議なものだ。
手間はかかるのだが頑張って全車を整備していこうとおもう。

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