子供の“ウンコ”は綺麗だ。

大人のそれと比べると・・・比較対象は、自分のしかないが・・・格段に美しい。

それを眺める時、僕はいつも、「水素自動車」を連想する。

純粋な水、水蒸気しか排出しない、地球に優しい、未来の乗り物。

実際、子供は“未来そのもの”でもある。

 

親になると、否応なしに、観察する機会に恵まれる、子供の“ウンコ”。

小さな頃、といっても娘はまだ三歳、十分小さいが、それ以前、一、二歳の頃は、“ウンコ”が非常にゆるい。

しっかりしてきたのは極最近である。

我が家でいえば、半年くらい前か。

初めてしっかりとした“ウンコ”が出た時は、親バカも甚だしいが、随分感動したものである。

声になるかならないかのト―ンで、

「おおおおおお~~~~~・・・」

などと低く呻き声をあげながら、じっくりと観察、いやもはや鑑賞。

その時の僕を見た、妻曰く、

「やっと、満足のいく作品が出来たときの陶芸家」

 

たまたま、僕が部屋着のラインナップの一着、作務衣を着ていたせいもあるだろうが。

我が家のトイレは、山奥にひっそりと佇む、名窯(めいよう)となった。

あくまで、個人的感想だが、“ウンコ”がしっかりしてくると、喋りもしっかりしてくる。

いずれにせよ、成長の証には違いない。

以来、娘の“それ”は存在感、確かさを増してきており、一度など、「娘から娘が出てきた」と錯覚するほどの、マトリョーシカのような、立派な“ウンコ”が出てきた。

 

とにかくである。

“ウンコ”を見れば、子供の健康状態なども一目瞭然。

観察は欠かせない。

 

一年以上前のことだったか。

娘がひどい下痢をした。

妻が、娘の“それ”の状態を、携帯のカメラで撮影する。

かかりつけの病院の先生に見て頂き、判断を仰ぐためである。

妻の携帯は、当時、まだ“ガラケ―”であり、

そのカメラには、とある便利機能が装備されていた。

「“シーン別”に一番いいかんじで撮れる」

・・・ぐだぐだの説明で申し訳ないが、確か、そんなヤツ。

この場合の、シーンとは、“昼間”とか“夜景”とか“運動会”とか。

“子供の顔”なんていう項目もあったか。

被写体、シュチュエーションごとに、カメラのモードが“手動”もしくは、“自動”で切り変わり、そいつの良さが最も際立つ雰囲気、色味、光の加減、何でもいいが、とにかくいい感じに加工してくれるのだそうな。


その優れもので、妻が「娘の粗相」を撮影しようと携帯を構えた。

ピントが合う。

自動で、モードが切り変わり、妻の携帯、そのカメラのICチップだか何かがチョイスしたシーン。
それは・・・「お料理」だった。

色か?状態か?

あるいは、娘のそれの「茶色」と、おむつの「白」が奇跡のコラボ効果を発揮したのか。

そこに“湯気”が手を貸し、いよいよそうとしか見えなく・・・あまりにも、ベタ、かつ、お下品な話題。

これ以上は言うまい。

芸人特有の、“希望的観測”、“願望”が、僕の眼球からの情報を捻じ曲げたのかもしれぬ。

いや、おそらくそうだろう。ただ一つ、その写真を見た妻が、

「おいしそ~・・・」

とつぶやいたことだけははっきりと覚えているが。


 

 

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