「“大検”(大学入学資格検定)を取る」ための準備を始めた頃から、僕はそれまで随分と苦しめられた「段取り」、「儀式」、「ルーティン」・・・なんと呼んでもいいが、とにかくその悪しき習慣を、止めることこそ出来なかったが、一時的に、しかし格段に“短縮”することに成功した。

専門家に見せれば、何かしらの肩書、要するに“病名”を授けてくれたであろう、僕の行動、思考の数々。
ざっと記せば、
「徹底した掃除、整理整頓をしないと勉強できない」
「粘着テ―プがロ―ル状になったヤツで、自分自身を“コロコロ”しないと気が済まない」
「ノ―トや教科書の角をキッチリそろえなければ何も手につかない」
“気合”を入れるためのよくわからない儀式もあった。
「両手で顔を覆って、大きな声で、“よしっ!!”と叫ぶ」
「手の指の関節を10本全部ポキポキ鳴らす」、「ひざ、肘、くるぶしなど、体の各関節を手の平でぐっと包むようにして触る」
いざ勉強に取り掛かかれても、
「“筆圧”を異常に強くしないと勉強した気にならない」
「シャ―ペンの芯が折れ、どこかへと飛んでいくと、その細かい小さなシャ―ペンの芯が発見されるまで、勉強出来ない」
「定規のまっすぐな線で字を書かないと気が済まない」
さらに、“深夜のジョギング”の際には、
「自分の足跡が、後方にしっかり残っているように感じ、かつ、その足跡がまっすぐになっていないと我慢できない」という、そもそもが“妄想”なのに、その“妄想”に“妄想”を積み上げた“妄想マンション”と言ってもいい、そんなボス級の邪魔臭いルールまで登場し始める始末。

しかし、“大検”の時、僕には時間がなかった。
あれば、何年かかけて数科目ずつ合格する道もあっただろうが、今まで人生をほっぽらかしていたつけがたまり、僕は一度で全てに合格しないと駄目な状況に追い込まれていた。自業自得。
やるしかない。
それほど、“大検”は僕にとって、「人生に復帰する」、「社会に再度侵入する」ための、重要かつ唯一残された、“切符”、“鍵”だった。

そこには、ある種の“あきらめ”があった。
もうどう足掻こうが、“完璧な人生”など戻ってこない。そもそも、その“完璧”が幻想に過ぎなかったのだが、とにかく、このまま何もせず行動しなければ、さらなる地獄へと突き進むのは明らかだ。
そうなってからの“リカバリー”の大変さを想像しただけで、内臓全てが口や鼻から出てしまう程の吐き気を覚えた。
“とりあえず”やるしかない。
“とりあえずやる”・・・こんなに素晴らしい言葉はない。
“とりあえず”生きていくことの大切さ、素敵さ、強さをこのとき僕は感じていた。
人生とビールは“とりあえず”が大事だ。
知らんけど。
色々紆余曲折、試行錯誤はあったが、なんとか全ての“段取り”を、「右手を筒状にし、そこに口を当て、息をフッと吹き込む」という所作に集約することが出来た。出来たというか、そうしたというだけだが。
とりあえず。

これは僕としては画期的なことで、何より、楽珍。時間が大幅に短縮される。新幹線開通どころの話ではない。
伊能忠敬が、十何年かかった日本地図の作成が一週間で完了、いや、昨日来たハレー彗星が、来週の水曜日にまた来るくらいの劇的な短縮だった。
結果、なんとかかんとか“大検”を取ることが出来たのである。

ちなみにこの「フッ」は、今でも残っている。
妻に何度かこの動作を見咎められたことがあった。
僕としては、何か気を落ち着けよう、よし頑張ろう、一回話を整理しよう・・・そんな時に自然に出ているだけの動作なのだが、彼女は何かの宗教的な行為だと思っている。
同じような動作をハリウッド映画か何かで見たことがあるというのだ。
簡略化された、なにかお手軽な、ポータブル版の“邪気払い”。
「あたしの存在を“フッ”としてるんでしょ?」
妻もなかなかである。
まったく馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しくはあるが、なんか面白いので、特に弁明せず笑って誤魔化している。
・・・とりあえず。
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