いざ自分が親になってみると、驚くほど「馬鹿な叱り方」しか出来ない。
現在、三歳のわが娘。
彼女が僕の、あるいは妻の言うことを聞かず、駄々を捏ねることなど日常茶飯事である。それが子供の仕事なのだ。

「遊んだおもちゃを片付けない」とか、「嫌いなものを食べない」とか、「ソファーの上でピョンピョン飛び跳ねる」とか、叱るきっかけは、その時々で色々だが、その度に、自分の「叱り方のバリエーション」の少なさに愕然とする。
第一声は、「片付けなさい!」、「食べなさい!」、「やめなさい!」となるわけだが、問題はその後。
僕の“第一叱責”でも、娘が言うことを聞かず、益々駄々を捏ね始めた場合、というか、大概そうなるわけだが、それを継ぐべき二の句・・・これの品揃えが、我ながら貧相なことこの上ないのだ。

「じゃあ、おもちゃ全部捨てるよ!」
「じゃあ、パパもう、ももちゃんと公園行かないよ!」
「じゃあ、好きなテレビ見せないよ!」
多くの場合、この手の叱り方になってしまう。ダサい。
脅かしてみたり、交換条件を出して黙らせたり。
何か権威のある子育て本、それこそ、「正しい叱り方」みたいな手引書でも読んでみれば良いのかもしれないが、「それもなんか違うな・・・」という極めて希薄な動機から実行していない。無責任な親である。

我が家では、子供を叱る時、“鬼”に対する依存度が高い。
事の始まりは、一年ほど前だったろうか。僕が何か仕事の作業をしている横で、妻が娘を叱り出した。それを聞くともなしに聞いていた時のことである。
遊んだおもちゃを片付けずに、新しいおもちゃを引っ張り出してきたとか、そんな些細なことだった。
かわいそうになり、「パパと一緒に片付けよう!」と言いかけたが、母親が叱っているのを、父親がしゃしゃり出て止めるというのも、教育上よろしくないのでは・・・そう思い直し、出航しかかった助け舟を、ぐっと我慢して港へ帰す。

何より、そんなことをすれば、後で僕が妻に文句を言われる。嫌だ。
「じゃあ、おもちゃ全部捨てるよ!」
「もう公園行かないよ!」
「ももちゃん好きなテレビ見せないよ!」
お馴染みのパッケージでいくら叱っても、泣きわめき、駄々を捏ねるのをやめない娘。
スティーブン・キングが書いた小説、「キャリー」の主人公のような能力がうちの娘になくてよかった・・・そんなことを考えていると、「満を持して」、あるいは、「最後の切り札」、言い方はなんでもいいが、そんな雰囲気を漂わせながら、妻が言い放った。
「“鬼”に電話するよ!」
すると、それまで、手から離れて勢いよく水を撒き散らす、庭のホースさながらに、床をのた打ち回っていた娘が、「ピタッ!!」と泣き止み、散らかしたおもちゃを自分で素直に片付け始めたのである。

聞くと、そういう“アプリ”があるという。なんでもアプリか。
“鬼のアプリ”・・・とてつもない額の課金を迫られそうだ。
起動させると、「プルルルルルル・・・」と、電話のコール音が流れ始め、しばらくすると、何者かが電話口に出て、「言うことを聞かない子は誰ですかー!!!!」と、おどろおどろしい、地の底から湧き出るような低い声で喋り始める。“鬼”である。
要するに、なんのことはない、“秋田のなまはげ”と同じシステムだが、スマホの画面には、ご丁寧にもリアルな劇画タッチで、怒りに満ちた恐ろしい形相の、鬼のイラストまで表示されている。
そもそも“鬼”などいないのだから、リアルも何もないのだが、大人の僕でも、夜中一人で見聞きすれば、寒気がするような迫力がある。
大体、こんなものを子供に見せていいのだろうか・・・そんな心配までしてしまう程の出来栄え。
これが効果覿面。
今では、スマホを見せずとも、「鬼来るよ!」と言えば、娘の駄々は大概収まるので、つい僕も、この「鬼来るよ!」に依存してしまっている。情けない話だ。

本来なら鬼の権威に頼らずとも、父の威厳で・・・とも思うのだが、何せその威力たるや絶大なのだ。
仕事に行く前、慌ただしい時に娘に愚図られたりすると、ついつい「鬼来るよ!」を発動してしまうのである。
尾木ママに怒られそうだ。

娘が二歳の頃の節分。
家族で豆まきをした。妻の発案である。
彼女は何かにつけ、そういう「行事ごと」が好きで、というか、そういうことをきちんと消化していくことこそが、家族の幸せに直結しているのだという、ある種の強迫観念ともいえる考えを持っているようで、クリスマスや正月は勿論、十五夜の月見や、七草粥なんかの際も必ず張り切る。
正直、そういう妻のノリに、少し辟易していたのだが、この時ばかりは感謝した。

僕自身、これまでの人生で、家族でそういう行事をするということが無かったし、そもそも季節の行事など、「しょうもない!邪魔臭い!」と一蹴してしまいがちな、捻くれた人間。
娘には、こんな無味乾燥で、面白みのない人間になって欲しくない。
そんなわけで、僕は喜んで“鬼の面”を被った。
“鬼の面”と言っても、子供向けにアレンジされたもので、非常に可愛らしい雰囲気である。
口元には、笑みすら湛えている始末。そのどこか人間に媚びたような表情は“鬼”には相応しくない。こんなおとなしそうに微笑んでいるやつに、「鬼は外!!」と豆をぶつけてもいいものか、そんな無慈悲な家族に、果たして福はやって来るのか・・・甚だ疑問ではあったがこれも娘のためである。
彼女のためなら、僕は“鬼”にでも何にでもなれるのだ。
格好いい。
僕が鬼の面の耳についた輪ゴムを自分の耳に引っかける作業と格闘している間、妻は娘に豆が山盛りになったお椀を渡し、そそくさとカメラを取り出して、撮影の準備を整えた。
父と娘の節分のワンシーン、その素敵な想い出をしっかりとおさめようというわけだ。
妻は写真が好きである。もう眼球をカメラにするオペを受ければいいと思うほどに。
そんなことはどうでも良い。
本番。
鬼の面をかぶって、「さあ、ももちゃん!鬼に豆をぶつけるんだよ!」僕がそう言うと、娘はまだ拙い口調で「ハーイ!!!」と返事をし、夢中で豆をぶつけ始めた。
ただそれは、鬼の面を被った僕にではなく、カメラを構えた妻にであったが。

「おにーーー!!!」と言いながら、妻に豆をぶつける娘。それを傍らで見つめる鬼・・・もとい、僕。
流れる気まずい空気。
よせばいいのに僕は妻に、
「やっぱ子供って、誰がほんまの鬼か分かるんやな~!」
・・・あとは御想像にお任せするが、その夜、我が家に訪れたのは、“福”などでは決してなかったことだけは確かなのである。



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