先日、大阪にて“ルネッサ~ンス”と連呼し、乾杯し、漫才をし・・・要するに“営業”というやつだが、イベントに出演した後、新大阪の駅もほど近い、とあるビルの一室で取材をうけた。

指定されたその会議室に行くと記者が二人おり、一人は“○○女史”と呼びたくなるような、ベテランの、上品な雰囲気の漂う女性記者、もう一人は、取材の様子を撮影するため同行した男性記者で、カメラを携えている。

おそらく女性記者の後輩にあたるのか。

挨拶もそこそこに、その男性記者が、僕に問いかけてきた。

「山田さん・・・覚えてます?」

結論から先に言えば、この男、偶然にも、僕の小学校の時の同級生で、しかもよく遊んだことのある友達だった。

二人は28年ぶりの再会であり、しかも、小学校時代の僕の思い出の中でも、主要な登場人物でもある、おぼえのめでたい友人の一人だったので、“驚き”、“感動”、“懐かしさ”・・・ありとあらゆる“ドラマティックな感情”が沸き起こった。


しかし反面、僕は少しイラッときていた。そういうところが僕の駄目人間たるゆえんなのだが。

彼に罪はないが、そもそも、この「・・・覚えてます?」が嫌いなのである。

なぜ人は、こういった“再会”の場面で、とかく「クイズ形式」を採用しがちなのか。

なかなか性質の悪いクイズである。

圧倒的に出題者側が有利。しかも“ノ-ヒント”である。かといって、ヒントを小出しにされて長々と引っ張られ、いたぶられるのも面白くない。

よって、この状況を楽しめるのは、概ね出題者の方だけとなる。

こちらはと言えば、「えっ、えっ、誰だろう・・・」と慌てふためき、頭をぐるぐる回転させて、なんとか思いだそうとする・・・でも思い出せない。向こうはそれを眺めて楽しめるわけだ。

しかも、この“クイズ”、その“謎”を解いてまで辿り着くだけの価値がある相手なのかは、答えを聞くまで分からない。

そうでなかったとしても、結局、種明かしの後は、こちらは「あああああ~!!○○君!!?いや、懐かしいな~!!」と最上級のリアクションを提供しないと気まずいし、向こうも納得しないのである。

一方的な負担。

大体、「・・・覚えてる?」程度のきっかけで思い出せる相手なら、そもそも、こちらから「○○君やろ?」と気付くものだ。

僕のこれまでの人生を振り返れば、“すねに傷持つ”どころの騒ぎではない。歴戦の傭兵のように傷だらけである。傷一つ一つのエピソードもろくなものではない。

よって、そんな風に“泳がされる”と、なんとなく「何か悪いことしたかな?あれがばれたのか?それとも・・・」という心持ちになってしまう。

明確に心当たりがあるわけではないのだが、反射的に自分が悪いのかなという思考になってしまっているのである。

その瞬間、専門家ではないのでよく分からないが、何かしらのホルモン、化学物質の類が、“水のトラブル八千円♪”を呼ばないと収拾がつかないほど、脳内で“じゃぶじゃぶ”分泌されるのを自覚できた。

最悪、相手が女性であれば、こちらも少しは楽しめる“ドキドキ”にもなるだろうが、おっさん同士のクイズ大会・・・不毛である。

とにかく、こういう場合、なんならあっけないほどに、身も蓋もない感じで“スッと”言って欲しい。本当に、それが意味のある相手であれば、下手な小細工などしなくても、感動はちゃんとあとから付いてくるのである。

とまあ、少々感動を濁す要素があくまで僕にだけだがあったものの、幸か不幸か、彼のことをよく覚えており、結果大いに驚き、興奮し、懐かしい話も色々飛び出した。

彼とは幼稚園も同じクラスだったこと。

小学校の時には、久林君、通称“ひっさん”の家の前の空き地で、理由はもう忘れたが彼と決闘することになり、僕がヘッドロックで勝利したこと。

“ひっさん”の家は、僕の住んでいた町で一番最初に“パソコン”を買ったこと。

好きだった女の子の名前の言い合い。

ただ事実を羅列しているだけなのに、あんなに盛り上れるとは。“あるあるネタ”が根強い人気を誇るわけだ。

自分でも驚いたが、僕は、小学校時代、彼の家に遊びに行った時に、遊んだ“おもちゃ”のことまではっきりと記憶していた。

“超合金”のロボットで、「小さいロボットに人間が入って、それが中くらいのロボットの中に入って、中くらいのが大きいロボットに入る」やつである。

当時、僕の家にはテレビがなかったので、そのおもちゃの元ネタとなるアニメ自体を見たことがなかった。結果、上記のような曖昧な覚え方になったのだろう。

大人になって調べてみたら、「闘士ゴーディアン」という、アニメ番組に登場するロボットのおもちゃであった。

当の本人、持ち主であった彼が、「そんなおもちゃ、家にあったかな~・・・」と記憶がないのに、借りて遊んでいた僕が覚えている。

どれだけ当時の僕が、そういった“おもちゃ”に縁がなかったかを示す悲しいエピソードとなった。

そんな話の途中、彼が「そう言えば・・・」と切り出した。

「あの、やまっち(僕のこと)が通ってた“○○セミナー”・・・あの後、俺も通ったよ!」

“○○セミナー”とは、中学受験のために、僕が入った塾であり、“あの後”とは、僕が六甲中学に合格したあと、つまり彼は中学生になってから、その塾に通ったということだ。

拙著、「ヒキコモリ漂流記」を読んだ人はピンとくるかと思うが、その“○○セミナー”は、非常に“しょうもない”塾であった。

僕が本当に通いたかったのは“日能研”という中学受験の実績も申し分ない大手の塾であったが、父が金をケチったため、家の近所の、僕を含め生徒が二人しかいない、そして何よりも、先生より先に僕が問題を解けるようになってしまうという心許ない事態が起こるような、そんな塾に通う羽目になった・・・あの“しょうもない”塾である。

正直なところ、合格したのはあの塾のおかげ・・・とは毛頭思っていなかった。

僕が中学に合格した時、先生は、「君も山田君みたいになれる!!」と書いた“チラシ”を町中に撒いた。その“チラシ”がまんまと彼に対して効力を発揮したのである。

僕が恐る恐る、

「・・・しょうもなかったやろ?」

と聞くと、

「しょうもなかった!」とすぐさまの返事。


入ったはいいが、すぐに内幕に気付きやめたらしい。さすが後に新聞記者になる男。当時から鼻が利いたようだ。

期せずして広告塔となってしまった責任を感じ、申し訳なく思った。

ほどなくして、その塾はなくなったそうな。

思えばあの先生も“一発屋”だったのかもしれない。

知らんけど。


ヒキコモリ漂流記/マガジンハウス
¥1,404
Amazon.co.jp