何で見て知ったのか・・・娘が異常に欲しがるので、「シルバニアファミリー」という、玩具を買い与えた。
店でお会計をする時、ほんの少しだが、「お父さんは、おもちゃなんて何にも持っていなかったよ?何なら、酒瓶の蓋とか石で遊んでいたよ?」・・・そんな思いがよぎった。
自分の娘に対してまで、こんな妬みの気持ちが沸くとは我ながら恐ろしい。
反面、僕はこの“シルバニア”を持っている子供の家は金持ちだという認識があり、それを買ってやれる自分にある種、誇りのようなものも感じていた。気分がよかった。
実際は、金持ちではなくてもまあ買えるが。
とにかく、そんな自分の“不平不満の記憶”を、娘に上書きする意味など全くない。
不毛な連鎖は自分の代で断ち切るのだ。
むしろ自分の子供時代の鬱憤を晴らすべく、張り切って買ってやった。
家に帰り、楽しそうに遊んでいるのを見て、僕は大いに満足した。そこまでは良かった。
ある日、家に帰って、「シルバーニ―(娘がそう呼ぶ)」で遊んでいた。
近寄ってみると、娘は“うさぎ”や“リス”を摸した可愛い人形達の、その愛らしさの“心臓部”、“肝”と言っていい、ふさふさとした「尻尾」を、あろうことか全て・・・ちぎっていた。
想像するに、尻尾があるのは、僕や妻、友達や自分、つまり人間と違うので、おかしいとでも思ったのか。知らんけど。
見事にお尻のふさふさを失った、「シルバーニ―」の森の仲間達・・・。本来、メルヘンチックな世界観、設定で人気を博している玩具である。
森の仲間達が、素敵な洋風のお家に住んでいる。小さなティーカップや食器、お風呂にテーブル、大人の僕も舌を巻くほどの細部へのこだわり。子供のおもちゃとは思えない素晴らしい品質。作り手の職人魂、誠意のようなものが垣間見える。
しかし、その“メルヘンな世界”はもうそこにはなかった。あるのは、尻尾を失ってなお二足で直立しているうさぎ達である。
何やら、うさぎから進化を果たし、それまでわがもの顔で地上を支配していた我々を駆逐し、人類になりかわって新たな地球の支配者となった「うさぎ人」とでも言えばいいのか。
彼らが森の別荘でバカンスを楽しんでいる・・・そんな奇妙なSF感ただよう、手塚治虫の「火の鳥」に出てくる“ナメクジ人類”のような、メルヘンとは程遠い、なにか“メッセージ性”の強い展示物のようなものに変わっていた。
「このまま人類が我儘勝手に地球環境を破壊し、戦争で争い、殺し合えば、こんな未来が来るんだよ」・・・そんなメッセージ。
おおよそ幼児が触れ合う対象として似つかわしくない。
さらに娘の“奇行”具合に拍車をかけたのが、そのちぎった尻尾を、捨てるでもなく、集め、もれなく綺麗なクッキーかなにかの空き缶に入れて保存していたことであった。
これらの行為が娘のどんな可能性や才能を示しているのか、正直それは僕には分からない。
育むべきか否か。難問である。
ちなみに、粘土遊びを覚え始めの頃、何か細長い物を作っているなと思い、娘に、「何作ってんの?」と聞くと、満面の笑みで、「ゆびー!!」・・・そう言いながら差し出して来た。
また別の日に、何か平べったい物を作っているので聞いてみると、同じく満面の笑みで、「みみー!!」と言って差し出した。
ある日家に帰ったら、完全なる「粘土人間」が僕を出迎えてくれるのかもしれない。
もはや創造主、神である。
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